【短編】地下鉄2号線 江南駅 2万ウォンの女

韓国ソウルの地下鉄2号線。51もの駅からなるこの路線の、それぞれの駅に生きる人の物語を書いてみました。


バスは大通りに入ると、一気に加速した。流れる景色が高いビルが曇った空に差し込み、キラキラとオレンジ色に光っている。20時が近いというのに、夏の江南駅は西日が眩しく差しこんでいた。人で溢れかえる通りを、逆行しながら歩く。Coffe Beanでアイスカフェラテを二つ買って「カジョカルケヨ(持って帰ります)」と言って紙の箱に入れてもらった。

彼の部屋はCoffe Beanから少し歩いたところにあるオフィステルの20階にあった。部屋の隣は扉に日本語学院というA4の張り紙だけの怪しい事務所があって、たまに日本人の男性が出入りしているのを見たことがある。きっと彼は私が日本人だということをわかっているだろう。メイクや鞄の持ち方、表情で日本人はすぐわかる、というのが韓国に留学してわかったことだ。南大門市場で韓国人と歩いていても「オネーサン、ミテ カンペキナ ニセモノ!」と私にだけ声がかかるのはそういう法則があるらしかった。

彼とは在留日本人の集まりで知り合った。同じ語学堂に通う2つ年下の愛子に誘われたのだ。彼は日本人なら誰でも知っているアパレル会社のソウル法人に出向していた。35歳で、日本に婚約者がいる。

私は東京の大学を卒業して2年間、コールセンターで派遣社員として働いた。就職先が決まらないまま、卒業した。周りがどんどん内定をもらっていく中で、私だけがどこからも必要とされていなかいという事実は心を病むのに十分だった。一応学生時代からの恋人はいる。彼は彼の地元である北海道で公務員として就職した。遠距離恋愛になった。次に契約が更新されなかったら結婚しようといわれた。更新などされないと見透かされているのだ。 私は何も成し遂げていない。社会という場所で、独身の女性だというだけで、安くて、ちょっとだけ融通の利く方の派遣社員、それだけだ。

インターフォンを鳴らす。韓国のそれはとてもけたたましくて、ソウルに来て半年が過ぎるのにまだ慣れなかった。
「コーヒー買ってきた」
「いつもありがとう。けどいいのに、高いし」
この国では食べ物よりコーヒーの方が高かった。けど何も持っていかないわけにはいかなかった。このあと、彼にいろいろしてもらうのだから。
彼の部屋はいつも綺麗だ。最新型のテレビの横には観葉植物まであった。黒い大きな皮張りのソファと、ローテーブルだけの部屋。窓側にはグレーの大きなアンプ。それだけでも彼の職場での地位や、収入が残酷なぐらいにわかった。
ソファに座ると買ってきたコーヒーを飲みながら、今日、語学堂であったことを話した。在日のクラスメイトがいつも遅刻してくること、今日お昼は理学系学部の中にある学食でコンククスを食べたこと、そしてコンククスはあまり好きじゃないと思ったこと。彼はいつも話を聞いてくれた。そして話すことがなくなって黙ってしまうと、彼は私に身を寄せて、キスをする。
彼とそういう関係になってしまったのは、ただ美味しいものを食べたかっただけだ。

2年間の派遣社員生活で貯めた100万円を持って、ソウルに来た。学生ビザではアルバイトも難しかった。1日千円ほどしか使えない日々の中で、週に一度彼と会って美味しいものを食べるために体を使うことに、何の罪悪感もなかった。三成駅にあるインターコンチネンタルのバー、高速バスターミナル駅にあるマリオットホテルのロビー、ロッテホテルの韓式レストラン。どれも私のお金じゃ行けない店ばかりだった。せっかくソウルに住んでいるのに、学食しか行けない生活は私をひねくれさせるには十分だった。
セックスをしたあと、駅の方に向かって歩いて行った。
「お昼はコンククスだったんでしょ?何がいいかなあ」
彼は先に歩きながら「あ、ポッサムは?」と聞いた。「うん」私はそう言って彼に着いていった。「食べたら、飲みにいくでしょ?今日はホンデで飲もうよ。よく行く店があるんだ」。
ホンデのバーは、私が通ったこともない裏通りの地下にあった。新村の安いスルチプ(居酒屋)ではみた事もないお酒が置いてあった。彼はほとんど韓国語が話せない。専任の通訳がいたし、従業員はみんな英語ができたから彼が韓国語を勉強する必要がなかったのだ。
「結衣はさ、韓国語話せるようになった?」彼はオールドパーの水割りを飲みながら笑顔をむけた。
「あんまり」
「結衣は帰国したらどうするの?」
 それは一番聞かれたくない質問だった。何も、考えていなかったから。
「どうしようかな。帰りたくないな」
 それは本心だった。こんな中途半端な留学が、この先の人生の役に立つとは到底思えなかった。ソウルにいて、ずっとフワフワした日本人留学生のままで、生きていたかった。
「俺、年末に日本に帰るかもしれない。完全帰国かも」
ニホン ニ カエルカモ シレナイ カンゼンキコクカモ。それが日本語であることに、一瞬理解できなかった。
「そうなの?」
「後任が来る予定でさ。そいつが逃げなかったらな」
 そう言ってから、ソウルは飯もうまいし逃げないだろ、と笑った。
 彼は私のことをどう思っているのだろう。私?私は…わからない。彼には婚約者がいる。私はただのソウル駐在員の暇つぶしの女。それでも全然よかった。日本でなら、絶対に彼とこんな関係にはなれなかった。こんな底辺の派遣社員とは、出会うこともなかったはずだ。寵愛。そうだ、身分の違う恋愛なんだから寵愛。私は何も持ってない、可哀想な、ただ若いだけの女。一流企業で働き、高い給料をもらって、ソウルに駐在している彼。日本から逃げるようにこの国にやってきた女は、同じ言葉を操るだけの、暇つぶしの相手。

けれど帰る場所のあるひととない自分。その国境よりも深く遠い分断を、直視することができなかった。性を媒介した彼との関係は、不安定で不条理だったけど、今はそんな関係に甘えていたかった。もう少しだけ、このまま。
 ホンデから歩いて帰るという私に、「危ないから」とタクシーを捕まえて、私に2万ウォンを握らせながら「また来週」と言った。手の中の1万ウォン札2枚が、今の私の価値のような気がした。


語学堂には真面目に通っていた。けれど授業中はほとんど発言しなかった。できなかった。下手な韓国語を聞かれるのが嫌だった。ちゃんと話せるようになるまで、話したくなかった。「結衣シ、何で話さへんの?せっかく留学来てんのにさあ」大阪から来た由理だ。「もったいないで?」由理は大学を卒業後2年間、大阪で広告代理店の営業をしていたという。同い年。留学を終えたらまたその会社に戻るのだと言った。決してうまいとはいえない韓国語を楽しそうに話す由理。帰国しても働く会社のある由理。妬むのに十分すぎた。私は、どこにいる自分も、大嫌いだ。
 

彼が完全帰国する日。見送りに行こうか、と言う私に「ありがとう。時間がなかったら無理しないで」と言った。
ああ、私は。この人のことは好きじゃないけれど、それでも彼がいたからソウルを愛していたんだ。彼がいないソウルで、私は残りの半年を、どうやって過ごすのだろう。


 空港で彼の姿を見つけた。ひとりだった。私は彼の名前を呼んだ。
「結衣のおかげで楽しかったよ。ありがとう。残りの留学生活楽しんで」
 彼はそう言って私を抱き寄せた。マネークリップで丁寧に束ねられた札の中から緑色の1万ウォンを2枚取り出した。「気をつけて帰って。残ったらお茶でもして」そう言って彼は出国ゲートへと歩き出した。
 2万ウォン。私はそのお金で地下鉄に乗り、晩ご飯を食べ、Coffe Beanでカフェラテを買うんだ。明日からも、この国で生きるために。


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