一斉授業といったら講義型みたいな先入観で論じるのはやめよう。

一斉授業とは、講義型の授業のことなのか。私にはそんな認識はなかったのだが、どうも「一斉授業とは講義だ」という考えを隠された前提として論じられていることが多い気がする。

なにが「一斉」なのかを考えよう。

自由進度学習だって、『学び合い』だって(しかしこの『』はほんとうにセンスが悪いと思う)、知識構成型ジグソー法だって、ぜんぶ「一斉」じゃないか。時間がズレてるのか? みんな同じ時間に学習してるんじゃないのか?

学習する〈内容〉が違うのか? でもその違いは微々たるものじゃないのか? どの範囲を想定しているのかによって、「一斉」とも言えるしそうでないとも言える。

そもそも、生徒の頭のなかで起こっていることは、あきらかに「一斉」ではない。講義だったとしても、ひとりひとりの頭のなかで起こっていることは違う。講義型は、ただそれを無視して、授業者が一方的に音波を出す方式だ。これは「一斉」か。

要するに、一斉授業で、自由進度学習だの、『学び合い』だのをしているのではないのか?

私は教職に就いてからほとんど講義したことがない。説明もできるだけ避けてきた。5分以上連続して授業中に話をしているのは、年に2-3回あるかどうかだ。

しかし私は、一斉授業をしていると自覚している。一斉授業をしているのであって、ほかのしかたで授業したことはない(受験のために、個別指導はする。しかしそれは授業ではない。)。

講義が悪いと思うなら、講義を批判すればいい。その方が比較しやすい。わかりやすい。なぜそうせず、「一斉授業」という言葉にこだわるのかわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?