〈生徒〉を考えるのは最後でいいんじゃないか

「生徒実態」という言葉を使わない協会の会員です。「生徒実態」というわけわからん語は使わないほうがいいと思う。(なんなら私は、「生徒実態」という言葉をベタに使っている人は信用できないとさえ思う。)なにがわけわからんのかはまた書くつもり。

なんにせよ、生徒に合わせてどうすべきかを考えるのは、授業や指導を考える最後でいい。そう考えている。

いわゆる「生徒実態」と呼ばれるようなものがなんなのか、私にはずっとわからない。だからそんなものを考えたことはない。

生徒から始めるのがいい、というのはなんとなくそれらしい。相手に合わせて話をしましょう、みたいなことだからかな。しかし、相手に合わせて話をするのは、話の中身がちゃんとある前提じゃないのか。もちろん、どんな話をすべきかという内容は、相手によるだろう。しかし、どんなことを伝えるべきかというのは、そんなにバリエーションがあるわけじゃないと思う。伝えるべきこと、どうしても伝えなければならないことというのは、たぶんそんなに多くないし、なんなら少ない。少ないほうがいいとも思う。

生徒に伝えるべきこと、どうしても伝えなければならないことだと私が考えていることは、多くない。しかしその多くないことはどんな学校、どんな生徒であっても、伝えるべきだし、どうしても伝えなければならないことだと考えている。

だから、授業や指導を考えるときには、相手のことは最後に考える。どのような伝え方をすべきかは、あとで考えるべきだ。

「生徒実態」なんてふわふわしていて捉えどころのないものを、正しく捉えられているか(そもそも正しいとか正しくないとかがあるのかすらわからん)はわからない。

だから、そんな曖昧模糊としたものを出発点にすべきではないのだ。最後に相手の様子を見ながら調整をかけていくべきだ。

料理でいうと、塩で味を整えるようなものだ。最初から塩の量を決めるのではなく、味見しながら、塩を足すのである。(まあ、こう書くと、最初に入れる塩の量が「生徒実態」なのだと言いたくなるかもしれない。しかし、どこで作るにしても、どんな相手に食べさせるにしても、ある一定の塩の量は必要だ。レシピに最初から書かれているようなものなら、一所懸命に把握しなくていい。そんな程度のものが「生徒実態」なら、やはり「生徒実態」なんて言う必要はない。)

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