生徒の力を信じ、鍛える。鍛えるための、授業をする。

所属校は大規模な定時制の高校だ。

いろいろな事情を抱えた生徒が大量に入学する。ほとんどの生徒が現状では合格し、入学する。だから、一般的に見ると、大変な学校だ。

進路多様校とか困難校とかに勤めると、なぜかそのことをアイデンティティの拠り所とする教員が多い。たぶん大変だから、そう考えないとやっていられないのだろう。

私は、「生徒実態」という言葉が嫌いなので、どんな学校に勤務しても基本的には同じことを指導しようとしている。やり方は変える。しかし、生徒にできるようになってほしいこと、考えられるようになってほしいことは変わらない。

その意味で、私はいまの所属校であってもこういうことはできますよ、ということを示そうと思っている。進学校と呼ばれる学校の授業を見て、それをアレンジしてやったこともある。資料や目標は同様にして、手立てを変える。ほとんどの場合、それなりにはできる。

こういうことを言うのも嫌いなのだが、私は生徒の力を信じている。

授業を同僚や管理職がよく見に来てくださる。授業後、意見をいただく。たいていは次のようなことを言われる。

「難しいことをやってて、私にもむずかしい。でも、生徒が集中していて、自分ももう少しいろいろやってみようと思った。」
「とにかく生徒を鍛えていると感じた。資料を渡せば初見でも読んで考えている。ふだんからいろいろと読ませているのがわかる。」
「生徒がどんどん書いていて驚いた。ふだんからたくさん書かせているのか?」

しかし、別に変わったことはしていない。「一斉授業」しかしてない。視聴覚教材もほぼ使わない。文章教材ばかりである。小さなホワイトボードも使わないし、グループ活動もほとんどない。ICTは使うが、それは生徒が書くため、読むためだ。講義はほぼしない。

もちろん、所属校だからこそできることもある。単位制であるからこそできること、2時間続きの授業だからこそできること。

同じように、できないこともある。しかし、そんなのはどの学校も同じだ。できること、できないことは、「生徒実態」によらず、ある。

とにかく全員を鍛えようと思う。そのための授業をする。全日制だから、定時制だから、通信制だから、というのは関係ない。

授業者には、このような原理が必要なのだ。自分の授業論が必要なのだ。

そんなふうに、最近強く思う。

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