自分が誰かに影響を与えている、現実になにかしらの作用を及ぼしているという感覚がいる。

昨日書いた記事に、Xで反応をしてくれた方がいらした。

とても嬉しい。この記事についてではなくとも、またこの記事に批判的であろうと肯定的であろうと、自分が書いた文章に反応があるのは嬉しい。自分が誰かに影響を与えている、現実になにかしらの作用を及ぼしているという実感を得られる。

だから、本当にありがとうございます。心からお礼申し上げます。

さて、この方の一連の投稿を見て、私も思考を刺激されたので、昨日書いたことに補足的に考えたことを書く。

まずもって、私は「パフォーマンス課題」という語がどの範囲を指しているのかがよくわかっていない。これは私の勉強不足のせいもあるだろう。ただ、「パフォーマンス課題」の定義が人によっていろいろあること、具体的な「パフォーマンス課題」の例に特徴的な偏りがあるように見えること(これが前回の趣旨だった。つまり、少なくとも国語科の「パフォーマンス課題」は、擬似現実的な設定が付加されていることが多く、それは有害なのではないかという趣旨である。そうでない事例が多いなら、ぜひ教えていただきたい。認識を改めることには何の抵抗もない。)も、私が「パフォーマンス課題」という語の範囲をいまいち理解できない要因のひとつになっていると思う。

また、そもそも「パフォーマンス課題」という語を使う必要があるのかわからないということもある。ある語が新しく使われるようになるということは、その語を使用することによってなにか現実や認識に作用を及ぼそうとしているのだと思う。これまで意識されなかった問題を意識されるようにするとか、これまでぼんやりと考えられていた概念の輪郭をはっきりさせるとか、これまでやってこなかったことを認識させ行動や実践を促すとか、そのような効果を期待しているのだと思う。「パフォーマンス課題」と言う必要があるのかよくわからん。

また、「パフォーマンス課題」という語は、最近は「真正の(な)学習」という語とセットで使われることが多いように思う。だから擬似現実的な設定が「パフォーマンス課題」に含まれることが多いのではないか。ここで言う「擬似現実的」とは、〈実際には現実にそのような状況はありえないが、表面的には現実にありそうに演出された〉というような意味で理解してほしい。そのような傾向に対して、私は害があると考えている。

「言語活動」という語にしてもそうだが、語の範囲がわからない言葉が使われると混乱する。もちろん私の頭の出来の問題もあると思う。でも、ほとんどの学習活動は、「言語活動」なのではないかと思う。ほとんどの授業内で与えられる課題は、「パフォーマンス課題」なのではないかと思う。つまり、あえてこのような語を使う意図を、私は測りかねている。

学習指導要領の指導事項との関係も、授業者側の意図ということならよく理解できる。ただ、生徒は授業を受けるなかで、授業者の意図の範囲に留まらないことを学ぶ。「かくれたカリキュラム」という語を思いだそう。生徒が学ぶ範囲は、教師の意図した範囲よりも通常は広いのだ。

前回、具体的な「パフォーマンス課題」の文章をもとに、疑問を提示した。これらの疑問は、そんなに変な疑問ではなかったはずだ。私はこのような疑問が生まれるのは当然だと思う。しかし、このような疑問については、不問にされるなら、それは「指示された範囲でしか考えてはならない。授業者の課題の意図を忖度して表現することが望ましい。」と指導しているようなものだと思う。少なくとも私は、これまで同期の研究授業や、他校の研究授業でこのような「パフォーマンス課題」を目にするたびに、いつも疑問が生まれ、「これがわからないと答えられないんじゃないか? 少なくとも私なら答えたくないなあ。」と思ってきた。

要するに、「パフォーマンス課題」における擬似現実的な設定は有害である、という強い主張をしたわけだ。もちろん批判は歓迎する。そのためにあえて強い主張をしている側面もある。

さて、例えば英語科で、「ALTに向けて文章を書く」という学習活動(「パフォーマンス評価」?)を設定する。問題は、これが擬似現実的な設定かということだ。

「ALTに向けて文章を書く」のなら、それはまさに現実的な設定ではないか。生徒は、身近な存在であるALTを意識して、「あのALTに読ませよう」と思って書くのである。そしておそらく、この活動で生徒が書いた文章は、実際にALTに読ませるだろう。これは擬似現実的なのではなく、現実のコミュニケーションとして設定されているのである。このような学習活動を「パフォーマンス課題」とあえて言う必要があるのかはわからない。しかしこのような学習活動に対して文句はない。有害だとも思わない。むしろどんどんやるべきだ。

前回例として挙げた「キャッチコピー」の課題だって、このような課題として設定できたはずである。学習の時期にもよるだろうが、実際に発行している「学校案内」を資料として配付し(pdfでよい。)、表紙にすでに「キャッチコピー」があるなら消して、どのような「キャッチコピー」がよいかを考えさせ、実際に表紙の画像にコピーを載せる。

あるいは校内でコンペを行なってもいい。コンペのために授業で「キャッチコピー」づくりに取り組ませるのである。規定として、例えば「このキャッチコピーを考えた理由と意図を200字程度で説明した文章を添付すること。」といった条件を記載すればいい。これがプレゼンの原稿に代わるだろう。

また、このように考えると、作らせるのは別に「学校案内」全体の「キャッチコピー」でなくてもいいのではないかと考えられる。例えば、各ページの「キャッチコピー」を募集してもいい。このような「学校案内」は、きっと学校の魅力をうまく伝えるものになるだろう。「生徒が各ページのキャッチコピーを書いたのです。生徒が本校の魅力をコピーとして書いたのです。」と宣伝できる。

大内善一氏の「コピー作文」の実践を参考にするのも良い。しかし氏の実践は、「パフォーマンス課題」なのか。わからない。

和歌の「パフォーマンス課題」も、「タイムスリップ」などする必要はないのである。単に、「好きな和歌を選び、その和歌の返歌を作る」学習活動でいい。また、「鑑賞文」ではなく、自分の作った返歌の解説文を書かせればいい。返歌なのだから、解説文は、元の和歌に当然言及することになる。元の和歌の解釈を含み込んだ形で記述することになる。

そして、この返歌集を製本し、文化祭で展示したり、図書室に配置したりすればいい。これを前提に、返歌と解説文を作らせるのである。つまり、全校生徒が読む可能性を考えて、学習活動に取り組ませるのである。

要するに、本当に誰かに読ませるような「リアルな文脈」を設定すべきである。自分の表現が、現実に作用すると実感させるような課題を設定すべきである。自分の表現によって、現実に影響を及ぼすことができるという実感を得られる課題を与えるべきである。私が文章を書くのも、そのような実感を持てるからだ。

「真正の学習」論者はそうは思わないのだろうか。

私は現実的なコミュニケーションの状況を設定すべきだと主張しているのである。生徒が実際に身を置いている状況を生かすべきである。また、そのためには生徒にとって身近な人物や、生徒の所属する共同体に対するコミュニケーションの状況を設定しようと意識したら良い。上の3例(ALT、学校案内、返歌集)を考えるとき、私はこのように意識したのである。

とはいえ、私は学習は必ずしも「真正」でなくていいと思う。不自然でいいと思う。私が気になっているのは、「真正」と言いながら、それがただただ擬似現実的であるに留まっており、それによって生徒の思考を害するのではないかということなのだ。

だから、「「論語」を商品に見立ててプレゼンする」という学習課題は、授業者の意図や自覚が明確なら、現実離れしていてもいいと思う。そもそも「真正」さとは無関係に課題が設定されているならそれでいい。

私なら、しかし、もう少しいろいろ遊ぶだろう。

例えば、「論語」をさまざまなメディアによってPRする学習活動である。情報商材っぽい1ページのウェブサイトや、YouTubeの広告動画、新聞の広告、ビラなど、あらゆるメディアのパロディ広告を作らせる。各部門で、最も「論語」を買おうと思う広告を選ばせてもいい。とにかくゲームとして設定するのである。できるだけ不真面目につくらせたい。しかし、中途半端にふざけるとサムい。内容がしっかりしていて、パロディの質が高いから、読み手(買い手)は面白がるのである。もちろん、学習指導要領の「読むこと」の指導事項「エ」を意識させて作らせる。「論語」の内容を根拠にして作らせるのは言うまでもない。

現実的な文脈とは無関係に、ゲームや遊びとして学習課題を設定する。このくらい現実離れさせていい。これが「パフォーマンス課題」なのかはわからないし、「パフォーマンス課題」かどうかなんてどうでもいい。

このような課題は大いにやるのがいい。賛成である。

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