北陸道8 松任宿→動橋宿
2024.08.28
1.松任宿
只今の時刻は05:08。
ご近所の方々が黙々と掃除をしてます。この時間にこれだけの人が集まって掃除をしていること自体も凄いのですが、全員がおしゃべりもせず、黙々と掃除をしてます。
プロの所作にしか見えません。
俳句を入れるポストがありました。
松任宿は江戸中期の俳人千代尼の出身地。その文化が現代に継承されているようです。
商店街では、店員の似顔絵苦付き幟が、お店のPRをしてます。
面白い取り組みですね。
街道沿いの商家や家屋の敷地は、短冊状に奥に細長く区割りされています。
隣同士の家が密着しているため、奥の様子は滅多に見る事ができません。
上の画像は空き地ができたため、奥までよく見え、中央に中庭がある事がわかります。
上の画像の拝殿、ガラス窓に覆われています。全国的にも珍しい光景で、北陸道を新潟県から南下して、富山県で初めて遭遇しました。
この先福井県でも目にする事が出来るのか、楽しみです。
松任宿の中心部はこの辺りまで、お伝えしてませんでしたが、松任の読みは、"まっとう"です。
小さな文字が入る宿場は、他に四日市くらいかもしれません。
2.成街道通り
成街道通り。
加賀藩藩主が、白山にお参りするときに通った道だと思われます。
視覚的に見覚えがあると思ったら、成田街道から"田"が抜けたからですね。
成田街道は3日で歩ける丁度良い街道でした。
成田街道は元々は千葉県の佐倉までの佐倉道の道の延長線上にある、成田山の参詣道。
人気が出たきっかけは、1688に後継に悩んだ初代市川團十郎が、成田山新勝寺の不動明王に祈願し、子を授かります。
恩返しとして、初代・二代目團十郎の親子で演じた新勝寺の不動明王を題材とした舞台が江戸で大ヒット。
これを機に市川家は「成田屋」という屋号を使うようになり、今でも節分などに新勝寺を訪れています。
成田街道を歩いた時の記録はこちら↓
村井共同住宅。
建築雑誌に取り上げられそうな美しい住宅です。
調べてみると、竣工が1986年8月、設計は(株)五井建築研究所。
第21回中部建築賞、第3回建築大臣賞を受賞してました。
稲刈りが終わってます。秋の気配を感じますね。
この付近の神社では、馬を奉納する習慣があるようで、還暦や初老の祝いで寄付を募っています。
3.白山を眺めながら
以前、日本一の蓮根の産地である茨城県の人から、早朝に蓮の花が開く瞬間に、パカッと音がすると聞いたことがあります。
いつも蓮の花を見るとその事を思い出すのですが、その音を聞くために早起きして蓮根畑に行く行動に至るには、何が必要なのかが思い浮かびません。
きっと、「その音を聞いた人には◯◯が起こる」の様な神話や、「有名人の◯◯さんがその音を聞いてから⬜︎⬜︎になった」の様な都市伝説が必要なのでしょうね。
白山。
富士山、立山と並ぶ日本三名山(日本三霊山)の一つで、信仰の山として親しまれています。
方位付きマンホール。
上の画像のマンホールには、東西南北の方位が刻まれています。確認したところ方位は合っていました。
これに気が付いた人はどのくらいいるのかが気になりますね。
ちなみにマンホールの語源は作業をする人(man)が入る穴(hole)です。
柏野じょんがら。
国道を渡る地下歩道に、地域の祭りの様子が丁寧に描かれていました。
おわら風の盆の、笠を被って踊る姿に似ています。北陸地方の踊りの特徴なのかもしれません。
上の画像の穴は、蝉の幼虫が地面から出てきたときの穴です。
一度だけ地面から出てきた瞬間に遭遇し、孵化するまでを観察した事があります。
脱皮直後は、消えてしまいそうな位に透き通った羽が生えてます。やがてみるみる色づき、立派な蝉になり飛び立って行きました。
また見てみたいものです。
越後越中國境付近から、家々の屋根は黒い能登瓦が目立ち始め、やがて半数以が能登瓦に。
倶利伽羅峠を越え加賀國に入ると赤の瓦の家が目立つ様になってきました。
赤の瓦といえば、2年前の2022年8月に歩いた西国街道で目にした石州瓦(せきしゅうがわら)が印象的でした。
石州瓦とは、島根県の石見地方で生産されている粘土瓦。寒冷地に強く山陰地方の日本海側で目にする事ができます。
広島県竹原市の田万里地区に入ると、里山の風景と赤の石州瓦が調和して、行ったことはありませんが、天国の様な景色でした。
西国街道、石州瓦が美しい広島県竹原市田万里地区を歩いた時の記録はこちら↓
朝6時からやってる定食屋さんを発見。
私の街道歩きの食事の傾向は、朝はパン、昼はラーメン、夜は刺身系つまみ。
肉と米をほとんど食べないので、身体が反応してカツ丼を頼んでいました。
4.手取川宿
浅野太鼓楽器店。
創業1609年、江戸時代初期から太鼓を作り続けています。400年以上も続いている、凄いことですね。
水島。
川の近くらしい地名になってきました。この辺は島だったのかもしれません。
多くの採石場が集積してます。
大きなふるいで小さい石を選別し、それを繰り返し様々な大きさの石に分別、ゆっくり見ていたくなります。
奥に見える駅の様な建築物は、除雪基地です。
5.粟生宿
九谷焼の産地です。
街道歩きで通った焼き物の産地で印象的だったのが備前焼の産地、西国街道・岡山県備前市でした。
なんと神社の狛犬が備前焼でした。
マンホールの紋様も備前焼。
七福神も備前焼。
窯元の風景。
備前焼の街道をあるいた時の記録はこちら↓
6.寺井宿
中西書店。
見るもよし
聴くもよし
されど
読書はマルチメモリー
いいこと書いてありますね。
寺井宿の三十一辻を巡るルート、味がある地図です。
読みずらい道路標識。
街道を歩いていると、読みずらい道路標識が稀にあるのですが、以前単身赴任でいた沖縄は、”まぁまぁ”ありました。ほぼ全部読めないケースもあります。
街道とはあまり関係ありませんが、読めない道路標識をまとめた記録はこちら↓
北村木箱株式会社。
名刺サイズからあらゆる木箱を製造する会社です。
7.長田宿
8.小松宿
戦闘機。
凄まじい轟音でした。
とはいえ、国防の最前線である日本海には必要な訓練です。
地元の小松宿で活躍するKOMATSUのユンボ。
私がカウンターで食べていると、後ろのテーブルに幼児を連れた三人の家族が入ってきました。
最初に、ノンアルビール、酢豚とレバニラとライスをオーダー。
その後、海老の天ぷらに焼きそば、なかなか渋いオーダーだなぁと感心していると、更にラーメンに炒飯、あともう一品餃子か何かを頼んでいたと思います。
私が先に店を出たのでその後はわかりませんが、凄かったです。
F15が編隊を組んでいます。
航空自衛隊那覇基地の近くに住んだ事がありますが、はるかに多くの回数で戦闘機が練習をしていました。
日本海国防の最重要拠点の街らしい緊張感が伝わってきます。
いつもありがとうございます!
桝形の形をデザインした、北國どおり商店街の幟。街道を歩いてきた中で最高レベルの幟のセンスです。
なんじゃ焼。
もんじゃ焼きだと思われますが、お店は閉店していました。
本光寺の塀が取り払われた由来が記されてます。
住職が寺に塀が必要なのか、気になり始め年月が経った寺の一千年歳の機に、反対を受けたりもしましたが塀を無くしたそうです。
開放的で素晴らしい景観がですね。
小松宿は街道らしさがどこまでも続く宿場町、今度来る時は泊まってみたいです。
9.月津宿
明日は冷凍ペットボトルを買える店がしばらく無さそうなので二本購入。
Tシャツで包むと、真夏日の日中でも冷凍状態が4~5時間保たれます。
串茶屋町は江戸時代に、加賀藩から大聖寺藩に編入されると遊廓が認められ、金沢や福井からの遊客が集まり、大いに賑わったそうです。
前職が旅行会社でしたので、この付近の温泉はコンパニオン付き宿泊プランが充実していたことを思い出しました。
遊廓が置かれた頃からの伝統なのかもしれません。
一枚の説明看板から、伝統文化の伝承を発見した瞬間でした。
小松市はコマツ(小松製作所)の企業城下町。
元々は鉱山の会社から、機会を作る部門を分社し、世界企業に成長しました。
小松の工場の敷地がどこまでも続きます。
赤い瓦屋根の家が増えてきました。
瓦の色の移ろいで地域を感じる事ができる、街道歩きの醍醐味の一つです。
祭りで旗竿を使った新地があるようで、立派な竿がたくさん収められてます
興宗寺。
赤い壁の寺を初めて見ました。
坂を下り動橋宿に向かいます。
10.動橋宿
本日の街道はここまで。
北西に3kmほど逸れた場所にある片山津温泉に泊まります。
稲刈り前の黄金色に輝く水田、美しいです。
街道歩きで大型温泉旅館に宿泊するのは初めて、なんだかワクワクします!
100人くらい入れそうな大浴場、夕飯開始の時間帯のせいか、私しかいません。
そこに後から小学校低学年くらいの男の子が一人で入ってきました。
広い風呂なのにやたらと私の近くに来ます。露天風呂に行くと付いてくるので、話しかけると、金沢市内からお母さんと来ているけど、小学校に入ったら一緒に入れなくなったそうで、二人で水風呂我慢大会をやったりして楽しく過ごせました。
夕食はバイキング。
家族連れが多く圧倒される中、黙々といただきました。
21:00から花火大会があるので、浴衣で会場まで向かいます。
人生初のドローンと花火の競演を見ました。これは面白いですね。
全ての服を洗濯したので、スッポンポンの上に浴衣一枚だったので、はだけないかヒヤヒヤでした。
長い一日でした。
5日連続の真夏の街道歩きも明日が最終日。4日で153.2km歩いたので、疲労が蓄積されてきました。
連続で歩くのは3日が理想ですね。