なんとなくあるラジオ局の2010年代を振り返る(前編)
前置き
まあぶっちゃけ職場のハナシなんですけどね。
別に機密を明かすわけでも暴露するわけでもないので期待すんなよ。
拙者を知る人には、現在の立ち位置を察してもらえるかもしれませんし、預言者1級の国際資格をお持ちの方なら、我が陣営の行く末も予測できると思いますので、ぜひお試しください。
前提
そもそも自分の職場に絞って具体的に書くのは、ラジオ局を編成面で語る際、千差万別になってしまうからです。
全国ネット番組が大半を占めるテレビと違い、ラジオの編成はその大半が自社制作番組のため、ハッキリ言って実際に聴かないかぎり全貌が掴めません。
例えば『みくばんPのバリバリサタデー』という番組名だけでは、「土曜日の番組なんだろうな」と察する程度で、ハードボイルドなガチ報道番組なのか、地元のアイドル番組なのか見当もつきません。
特にradikoエリアフリー以前は、エリア外の放送、とりわけ日中の番組の聴取は、電波マニア以外至難の業でした。
それゆえ、たった10年前とは言え、エリアの違う局の番組表を並べて考察することはほぼ不可能です。
そして1990年代から続く赤字環境を食い止める施策も、これまた放送局ごとに異なります。
人権費や制作費を極限まで落とした局もあれば、同じ物量を内製化で凌ぐ局もあります。
つまり本稿は、他局にも同じように当てはまる事例ではないことを前提にお読みください。
夜ワイドの凋落
1980年代の半ば、ティーン向けの自社制作の夜ワイド番組がエリア聴取率トップとなり、タイムCM(提供)もスポットCMもすべて売り尽くすという黄金期でした。
当時のリスナーは現在、拙者のような50代半ばから60代初頭の、AMラジオを支えている中高年となっています。
ところが、バブル崩壊を機にスポンサーが脱落し、生活材を中心とした中高年向けのCMしか売れず、夜ワイドはスポンサー料が制作費を下回る事態となってしまいました。
こうして2000年秋、我々の職場では夜ワイドの自社制作から撤退。
キー局からネット受けした番組は、ニュースなどを主題とした大人向けコンテンツでした。
当然ながら10代リスナーはほぼ殲滅し、局のイベントに足を運んでくれるのは、ほとんどが50代以上のリスナーになっていました。
ネット界隈には「AMラジオは高齢者向け」という人が今も少なからずいますが、それはこの四半世紀前に作られた印象に起因しているものと思われます。
ルサンチマン化
当時の制作部で多数を占めていたのは、実は30歳前後の若いスタッフでした。
定年を迎えベテランスタッフが減った一方で、補充は微々たるものでした。
その穴を埋めるべく、深夜まで残業して台本を書いたり、音声を編集していたわけです。
当時の僕はCMデスクを担当しており、制作にはタッチしていませんでした。
たまに残業すると、デスクに突っ伏して寝ている同世代の制作マンをよく見たものです。
夜帯には自社制作番組はわずかに2ベルト残った程度で、「若者向け番組は売れない」という不文律が支配し、自分の世代が楽しめるコンテンツ制作はほぼ封じられていました。
今の自局とは違う方向性で「大人のトーク番組作り」が叫ばれ、音楽プロモーターが遠ざけられたのもこの頃です。
そして自分より20以上歳の離れたリスナーに向け、延々と番組作りを続けざるを得なかったのです。
くたびれた同僚たちを見るたびに、僕は早く帰れることに申し訳なさを感じつつ「制作部には行きたくないもんだ」と思っていました。
ネットは敵
制作マンの間でインターネットの利用が始まったのは、社内で番組ブログの管理画面が共有された2005年前後のことでした。
とは言え、番組ブログに関しては完全に営業ツールであり、自発的に更新する番組は少数でした。
当時の感覚では、社内に「番組宣伝は宣伝担当が行うもの」「ネットは制作部の領域ではない」という風潮がありました。
制作スタッフがネットを避けた背景には「ネット広告がラジオを超えた」という報道、そして匿名巨大掲示板「2ちゃんねる」の存在がありました。
パーソナリティから「私のことがこんなにひどく書き込まれている」と相談を受けたスタッフがアクセスすると、自分の実名が晒されボロクソに書かれていて、ショックを受けたのでしょう。
職場は「ネットは敵」という雰囲気に満ちあふれていたのです。
とは言え、業界全般ではネットに関心のあるラジオマンもいて、2008年ごろからTwitterには「このままじゃラジオは死ぬ」と嘆く同業者が「twiradio」というタグを作り議論を戦わせていました。
第一次ポッドキャスト祭りの時期とも重なり、自身が制作した番組へのリンクを貼って集客する制作マンも多数いました。
時代遅れへの危惧
2009年のクリスマス、僕は会社の上層部を説得して局の公式Twitterアカウントを建立しました。
しかし同僚で面白がってくれたのはわずか数人で、かろうじてある番組がパーソナリティ別にアカウントを作ってくれました。
2011年の東日本大震災で日本のユーザーが1000万人を超えた頃、ようやく制作サイドから「アカウントを作りたい」という声が上がり始めました。
しかし「ネットは敵」の意識は残留思念となっており、デマの発生源として警戒するスタッフも多く、有効活用されるにはさらに2年近く要しました。
ちなみに、いま思えば大爆笑ですが、番組音声はWAVファイルで収録されていたのに、編集はPCの使用が禁止され、スタジオの取り合いで無駄な待機時間も多く、残業が増える原因となっていました。
僕はこの間の2010年に制作部へ異動していましたが、この意味不明なPC編集禁止令に辟易として、テレビフロアの端末でこっそり編集させてもらってました。
前の部署ではファイル化による効率化をぐいぐい進めていたので、異動して最もヤバいと思ったのは、IT面の遅れでした。
社内内外ともに時代遅れになってしまうと危惧したのです。
脱ローカル・親ニッチ
2012年春、上司から「SNSを前面にした番組を作れ」と命じられました。
おそらく、上司も新しもの好きなので、ある種の構造改革を求めていたのだと思います。
こうして初めて企画したのが『電磁マシマシ』という生ワイドです。
自社制作としては12年ぶりとなる2時間半の夜ワイドで、東京支社スタジオからの生放送となりました。
USTREAMで定点映像を同時配信し、コミュニケーションはTwitterのみに限定し、メールフォームも設けませんでした。
なおかつ番組ページをFacebookページのみにして、番組で話題にしたリンクや、画面キャプチャ、そして番組後記をリアルタイムに発信し続けました。
SNSメインの企画ゆえまず考えたのは「好事家を集めて束にしよう」ということでした。
SNSを使えばリアクションのやりとりは活発化しますが、番組としては右往左往するリスクも生じて面白みが半減します。
そこで考えたのは、送り手が一方的にジャンルに特化して喋りまくり、リスナー側では実況がバズる番組にしたかったのです。
それでパーソナリティの佐野電磁さんのフィールドであるゲーム音楽を中心に、DTM、シンセサイザー、声優にスポットを当てた「オトナのお子様ランチ」のごとき内容に特化しました。
当初はタイムラインに「なぜメールフォームがないのか」「名古屋の局が放送する内容ではない」と苦言を投下する古参リスナーもいましたが、1ヶ月もしないうちに見なくなりました。
好きなことしかやってない状況で、アナリティクスも低機能でしたが、イベントを開いてみると、ラジオ初体験というリスナーや、東京から来たリスナー、さらに高校生がやって来たりして、意外なポテンシャルを発見しました。
この時自分の中に「脱ローカル」「親ニッチ」というキーワードが生まれ、それが現在担当している『RADIO MIKU』のベースとなっています。
『電磁マシマシ』は2015年3月まで3年間続きましたが、この頃、同時に他のスタッフたちが自分の世代や若いリスナー獲得に向けて動き出していたのです。
(後編に続く、はず)。
ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。