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誰かと時間をシェアすること

先日の週末は、彼が用事があって出かけるというので久しぶりに1人で土日を過ごした。
起きたいときに起きて、食べたいものを食べて、思いついた順に動いてみた。
「自由だ!」という気持ちを100%味わって、とても満たされた。

1人で自分の好きに動けるのは自由な反面、少し寂しい。
日曜の夜には彼と電話をした。
この週末がどうだったかをお互い伝えあい私は最後にこう加えた。
「あなたと会う前の週末はこうだったなあって思い出したよ」
彼は喜ぶでもなく嘘をつけ、と茶化した。

この充実したひとりの時間を持つことは自分にとってとても大事で、これがないとバランスを崩す。


自分の好きなことをすること
自由を満喫すること
すなわち自分を大事にすること、愛すること。


それがあって自分というバランスを保って生きていける。
それもベストな状態で。

夏頃の週末、昼食を取りに彼と食事に出た時のこと。
ガレットは時折とても食べたくなる料理で、一度しか行ったことのないパリをいつも思い出す。
その日もガレットを目当てに出かけた。

さんざん迷って注文を済ませて料理が運ばれてくるのを待つ間、ふと横を見ると隣のテーブルには女性が一人。
やはりガレットの食事を取っていた。

あの子は1人の時間を満喫しているんだな。
自分を満たす時間をこんな風に取ることができて、本当に素敵。

よかったねえ、と心の中で隣の席の女の子につぶやく。
分かるよ、私もそういう時間をとても大事にしているし、とても大好き。

運ばれてきたガレットをほおばり、期待通りの味においしい!と彼と2人喜ぶ。
おいしい、楽しいをシェアできて幸せなはずなのにいつから誰かと気持ちをシェアすることがなくてはならないものになったのだろう?と思う。


大好きなガレットを食べて一人の時間を過ごすことで満たされていたのに「おいしいね」を誰かに伝えたくなるなんて。
「そうだね」と言って欲しいと思うなんて。

急に自分が脆弱な人間になったような気持ちになった。
隣の女の子は、立派だ。
1人でもちゃんと自分の時間を生きてる。

それに引き換え私は、誰かがいないと生きていけないなんてなんて弱い人間なんだろう。
私は急に怖くなった。

会話が不自然にならないようにもう一度意識を目の前のガレットと彼に戻す。

1人の時間も、誰かと一緒の時間もどちらが良くてどちらが悪いなんてことはない。
両方素晴らしい時間だし、バランスを取って生きて行ったらいい。

アタマでは分かってるけどどうにも消化不良な思いが残った。

後日、近所のガレットが食べられるお店を探して一人で食べに行った。
私のなかのガレット最適期間には少し早かったけど、その日はガレットを食べる必要がある気がして自分に許可した。
(普段はおいしさを存分に味わうために最高潮に食べたくなるまで我慢する)


メニューをじっくり吟味し、注文を済ませておもむろにバッグから本を取り出して開く。
開いたページの文字を追うことはなくぼんやりと思いを巡らす。
運ばれてきたガレットを一口一口ゆっくり味わって食べた。
食後のお茶もゆっくり飲む。
何かのマナーのようにもう一度本を開く。

お会計を済ませて表に出ると、理由の分からないやり切った満足感があった。
私、一人でも大丈夫。

何のための確認なのか、そもそもその確認必要なのか、いったい何におびえていたのか。
答えは知っているようで見てみぬふり。

その日の晩も彼に電話をした。
「今日、近所にガレットを食べに行ってきたの」というと
また?この前食べたでしょ。と返された。
「うん、そうなんだけど。どうしても食べたくなって。そのお店もおいしかったから今度一緒に行こうね」

そしてまたおいしいね、と伝えたい。
とは、言わなかった。

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