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最悪の1日

 誰にでも、書かずに忘れ去りたいぐらい最悪の一日というのは、年に数回はあると思う。

 昨日がその日であった。新年がはじまって早々来た。

 実は2年前から張られていた伏線の回収でもある。

 自分がそのアパートに住み始めて数ヶ月がたったころ、自分が住んでいる上の階の住人が、特に大きな音を立てているわけでもない私の生活音がうるさいと不動産会社を通じてひっきりなしに苦情を言っているようなのだった。まあ、音に敏感な人なんだなと思って一応お詫びの手紙と粗品をポストに入れ、相手からもお互い気をつけましょう的な手紙が来て、それで一件落着したと思っていた。

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 ところがそれからも、難癖をつけるような苦情が不動産会社にいっているらしい。自分が受け身になってそれに対応したのもまずかった。上の階からもドンドンと床を踏み鳴らす大きな音がよくきこえたから、それを申し立てるべきであったのだろう。しかしこちらとしては、そんなことにいちいちかまっていられないし、甘く見て放っておいたことは不動産会社にとってはあちらの主張が正当なのかもという心象を与えてしまったかもしれない。

 まあ、そんなことも特に忘れていた先週末の夜、トイレに行くときに扉に身体があたってしまって少し大きな音が出た。すると、何やら上の階の入り口のドアが激しく開く音と、ドタドタと階段を勢いよく降りてくる音がして、私の部屋のドアノブを掴んでガチャガチャけたたましい音を立てて激しくその人物が揺すぶったのであった。

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 私は、不意打ちであったこともあり、ものすごい恐怖を感じた。もしも、ドアに鍵をかけ忘れていたら侵入されていて、もしも凶器をもっていたら…など妄想も広がっていく。一度も見たことがない住人だから、尚更である。

 すぐに私は、警察を呼んだ。生まれてはじめてである。

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 初めてのことだったので、様々な混乱とともに迷ってしまい、電話をかけたのが「ドアガチャ事件」の20分後ぐらいになってしまった。

 最初に応対してくれた警察の方は、まあ案の定そっけない、ちょっと怖い感じの事務的な対応だった。住所を郵便番号から言うと、「あー、郵便番号はいらないんで」というような。それはそなるうだろう。いたずらとか面倒で無意味な電話にも対応しているだろうから。

 次に対応してくれたこちらに来てくれた地元の警察官の対応はとても丁寧なものだった。もっとぶっきらぼうにあしらわれるのも覚悟していたのだが、ひとつひとつ話を聞いてくれた。

 上の人にも話を聞いてくれて、かなり興奮しているということだった。私ははっきりと「上の階の人がやった」というのは言わず、もしかしたらという話をしていたのだが、話を聞くとやはりその人がやったということだった。私は、「どのような方ですか。何かご病気を持っていそうな方ですか」というような不動産会社にもきいた質問をした。

 警察官は二人一組で来ていて、上の階の住人に話を聞いていた方の警察の方とはその後話すことができなかった。それはとても不安で、結局私は脅迫文めいた赤ペンで書かれた手紙をポストに1通入れられたことで、即刻退去の連絡をし、引っ越し作業を今も少しずつ行っている。

 そして、昨日は2通目を確認し、警察署に出向いたのだった。2通目は丁寧に折りたたまれ、茶封筒に入れられて丁寧にセロテープで封をしてあった。もちろん、宛名やらは無しだ。謝罪文を送ったときの返信では黒いペンで書かていて、まあ、まともな人っぽいと感じたものだった。ところが、この2通の文面では、まともそうに演じている雰囲気が行間や文字の形などからはっきりと感じ取れる。色も赤だ、というのもある。

 警察に出向いて、最初に対応してくれた方も丁寧に私の話をきいてくれて、記録しておくとのことだった。しかしまあ、それ以上のことはできないししないほうがいいというのは予想通りだった。ここで終わっていたら、あまり何も変わらなかったかもしれない。ところが、二人目の警察官の方が入ってきて、その方が上の階の人と話してくれた方だったことがとてもよかった。なぜなら、私の疑問が一気に解決し、安心することができたからである。その疑問というのは、「なにか病気を持っている方であるかどうか」ということだった。

 上の階の人に警察官の方は、「ドアをガチャガチャするのはダメだし、開けて入っていったら犯罪になるからやめなさい」「下の音なんて何も聞こえないし、聞こえるとしたらむしろ大きいのは左右の音(自然音など)でしょう」等としっかり話してくださったようだ。そして、やはり、案の定その人は幻聴や妄想がひどいということだった。いろいろなありもしな音や話し声が聞こえるのだという。それはそれで、そこに住んでいる事自体迷惑な話だといえばそうなのだが、私はどうしても同情したり哀れんだりしてしまう。その人は狂っていて、そこで生きて死んでいくのである。私がその人にしてあげられることといえば、退去して無音にしてあげることぐらいだ。

 仮に、訴訟やらを起こして勝っても、責任能力の有無などでうやむやになって時間を無駄にしてしまうだけだ。それに、こうして警察署に赴き、親切な警察官にこれまでの経緯を詳らかに語っていると、自分がまるでその人とあまり変わりない狂人のように思えてくる。警察官も私をそう見做しているのかもしれない、と思う。傍からそう見做しているのではと。そして、当然だが、この文章を書いている私は、その時話していた自分なのだ。

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 さて、「最悪の一日」はこれが全てではない。その後、歯医者に行ったことがむしろ本題だ。本題なのだが、特に内容があるわけでもないし、だいたい予想がつくことなのでざっくりいうと、今まで歯の治療で経験したことのない神経の痛みという痛みを味わったのであった。麻酔をうってもほとんど効果がなく、その効果がないまま治療をするので激痛であった。「どんなふうに痛みます?」とあいつら(笑)に聴かれた時にこう答えればよかった。「大きなガラスを鋭い大きな爪でゆっくりギーギーひっかく不快な音が痛みに変わったような痛さです。」その音を聞くだけで蘇ってくる。そんな作業を延々と1時間半ぐらい継続したのだった。それで結局治療を中断し、来たときと変わりない状態でまた後日、ということになった。

 さて、日が変わって私は不動産会社に退去届を持ち込み、同時にあの手紙をみせてはじめから終わりまで説明し、二次災害として歯医者でおそらく睡眠不足と疲労で麻酔が効かず苦しむことになったと話した。無下にされるかと思ったが、意外にも手紙を見せて順番に話すと丁寧にきいてくれ、別の部屋を用意しますと言ってくれた。

 誰にでも、書かずに忘れ去りたいぐらい最悪の一日、というかほぼ一週間が終わり、2月になろうとしている。

※画像はすべてイメージで、実際のものではありません

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