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天秤

男が目覚めてから、既に四十分は経過していた。
いつものパジャマをきてベッドに座っているが、そのベッドも、彼がいる部屋も見慣れぬものだった。
一体ここはどこなのかという大きな疑問は拭えないままに、彼の頭は他のことでかかりきりであった。

彼の目の前には天秤が置かれていた。
ギリシャ神話に出てくるような古めかしい形をしており、ところどころ黒ずんではいるが金色の光沢を帯びている。
寝覚めの彼にも畏れを覚えさせたそれらは、彼の座るベッドと並行に置かれていた。
夜具を除いて、それがこの部屋にある唯一のものだった。

三つの天秤は既に傾いていた。
片方の皿には小さな黒い立方体が据え付けられ、彼が天秤を揺すってみてもびくともしなかった。
しかもその皿は透明なガラスに囲まれ、触れることができない。

男は左の天秤に何かを置こうと考えた。
この部屋から出るにはこの天秤を避けては通れまいと考えたからだ。
とはいえこの部屋には夜具以外のものは置かれていない。
皿に対してあまりにも大きい枕を置いてみたが、勢いよく傾いただけで何も起こらない。
枕を取り上げた際に感じた反動からすると、反対の皿にはさほど重くないものが載っているに違いなかった。

今度はパジャマの袖に着いたボタンを取り外し、皿に載せてみた。
天秤は僅かに動いたが、反対側に傾いたままで、なんの反応も示さない。
「重くてもだめ、軽くてもだめか。となると、釣り合う重さにするべきなのか?」

男は右手につけていた指輪を外した。
透き通る緑色の小さな宝石がついたこの指輪には、最新の盗難防止装置が付けられており、
本人が決めた順番で五指の指紋を認証しないと外れない仕組みになっていた。
試しにその指輪を天秤に置くと、双方の重さが釣り合ったかに見えた。
その途端、足元で機械音が響いたかと思うと、天秤の中央に嵌め込まれたランプが緑色に点灯した。
宝石の緑色とは比べるべくもない濁った色であったが、今の彼はその色にある種の安心を覚えた。
「この指輪が欲しくてこんな仕組みを用意したのか。まあいい、ここから出られるのなら惜しくはない。」

二つ目の天秤も同様に傾いていたが、既に要領を得ていたため、すぐに天秤が釣り合った。
彼は逡巡することもなく左手に付けていた指輪を外し、皿に乗せただけであった。

そして三つ目。この天秤が釣り合えば、今彼の右手にある取手のない扉が開くのだろう。
男は慣れた手つきで左手の指輪を外し、高く掲げられた皿に置いた。
それは彼の結婚指輪だった。
「最近では妻との関係もこなれてしまっている。事情を話せば許してもらえるだろう。」
しかしここで予期せぬことが起こった。指輪を乗せた皿があと僅かに降りてこない。
彼は身につけているもので指輪よりも重そうなものを手に取った。
それはとっくに思いついてはいたものの、手に取る勇気のないものであった。
それは彼の首飾りだった。星形の先端一つ一つに丸い飾りが付けられ、石でできたそれは、
明らかに指輪よりも重く、天秤と釣り合いそうな重さを彼の首に与えていた。

それは彼の心酔する占い師から購入したものであった。
この首飾りは信頼を示すものであり、彼をあらゆる災厄から守ってくれるらしい。
万が一手放すようなことがあれば、彼の信じる占いの効果がすべて消え去ってしまうと言われていた。
「もしこれを手放して、ひどい災いに襲われたらどうしよう。」
男は悩んだ。占い師に叱られる自分も目に浮かぶようであった。
これまで占い師から購入した物も片手では数えられない。今更そのご利益を失うのは恐ろしいことであった。
その時、男の頭に一筋の光が差し込んだ。
結婚指輪の皿にパジャマのボタンを乗せれば、天秤は釣り合うのではないか。

男はうきうきした気分でパジャマのボタンを外しにかかった。
「一つでは足りないから、袖と首元のボタン二つを外そう。」
はやる気持ちを抑えながらのため、手元がおぼつかない。
余分な力が指に込められていくのが自分でも分かった。
「うっ!」
ついに力の入れどころを誤り、爪を痛めてしまった。
男は一時休戦とばかりに、ベッドへ寝転んだ。

ぼんやりと天井を眺めている間に、家で待っているであろう妻の顔が浮かんできた。
指輪を渡した時の喜んだ顔、頬を打たれた時に薬指の指輪が頬骨に突き刺さるように痛かったこと、そしてそんな日の翌朝も、彼女の薬指には指輪があったこと。
男の頭に先ほどのような光はひらめかなかった。
ただ当然のようにベッドから置き、当然のように首飾りを外し、結婚指輪と入れ替わりに皿へ置いた。
そして開いたドアに驚きもせず、外へ出て行った。
出た先にはハイヤーが待ち構えていた。


あれから数週間が経つが、妻にその日の出来事は話していない。
占い師も訪ねてきて、私が首飾りをしていないのを見るやひどく激昂したが、
「私に数十グラムの金属を与えてくれたというその一点にのみ感謝します。しかし、あなたが私の何を救ったと言うんですか。」
と言うと言葉に詰まり、逃げるように去って行った。
妻の父からひどく上機嫌な電話がかかってきたかと思うと、速達で荷物が送られてきた。
曽祖父の形見と称して贈られた二つの指輪には、透き通る緑色の石と、最新式の防犯装置が付けられていた。


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