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強く美しくから柔くしなやかなるへ

 24歳は、お互いが責任を持ちながら頼りあえる関係の贅沢さを感じながらも、それが贅沢なことではなく、日常になったらいいなと思うようになった1年でした。
 小学校に入ってから心のどこかで思い続けていた「強く美しくありたい」から、「柔くしなやかになりたい」に自分の合言葉を乗り換えた1年でもあります。新しい章が始まるような心持ちです。月並みですが、歳をとったな、と、とても思います。

25歳ということ

 歳をとったな、という実感があるにもかかわらず、25歳になることに対しては、18歳から19歳になることのような、計り知れないほどに恐ろしく、戸惑いや不安が強くあります。(不安は自由の眩暈だという言葉から察するに、25歳に対しておおきな自由を感じ取っているのかもしれませんが。)

 19歳になる時、大学生になったばかりのわたしは、19個の小さなマッチ箱に19個の小さくて大事な写真たちを隠して展示をしました。わたしの「外」側に纏っていた「強く美しくありたい」ことの「内」側の柔らかい部分をくるんで捧げているような展示でした。
 25歳のわたしには、小さくて大事なものを人前に出しながら隠すことは出来ない気がします。輪郭をなぞりきることすら出来ない大きなものと向き合いたいと思った時に、より小さくて大事なものはわたしの「内」側の奥深くに沈んでいっていて、その沈みが隠しながら出せる範囲にはもういないから、かもしれません。

 もしくは、「強く美しく」の「外」が「柔くしなやかなる」に代わりきった24歳を経て、もうだいぶわたしの「内」が「外」と溶け合って、重いものはもちろん奥へ奥へと沈んでいくのだけれど、「内」と「外」の繋ぎはもはやグラデーションにしか過ぎなくなり、境界がわからなくもなってきているからかもしれません。

強く美しくならないと、という強迫に近い観念

 わたしの最初の「強く美しくあらねば」は、小学校低学年の時。それは、「正々堂々していないことへの怒りと悔しさを知った時」でもあります。

 牛乳パックをくり抜いて設置していたクラス用の目安箱の中に、〈友人〉の名義で、私に宛てた大嫌い、だか、死んで欲しいだか、そういったヘイトを書いた体裁に仕立てた手紙が入った時でした。
 終わりの回(終礼)で、半分泣きながら、もしくは本当に泣きながら、「誰だか知らないけど、私に文句があるなら、私に直接言え。偽って〈友人〉までもを傷つけながら卑怯なことをするような人に私は傷つかないし、文句はタイマンでかかってこい、ふざけんな。」という内容を7歳の語彙で言った記憶があります。今でも、その時の自分の心の内のざらざらした感触と、わたしの怒りをよそに、必要以上の静けさに包まれた教室の雰囲気のことをたまに思い出します。

 そこから15年以上、幾度となく感じるあらゆる”ざらざら”を経て、生きていくために、強く、そして、美しく(善的な美の話です)と、思うようになりました。「強く美しく」はわたしにとっての合言葉となり、いつしか強迫観念に近い想いになっていきました。

社会における自律性

 最近、父がわたしに対して「あの娘は理想を追いすぎる節があるから」と言っていたと聞きました。お言葉ではありますが、わたしは夢うつつに”理想”を追いすぎてなんかいません。地に足をつけながら、自分の歩みで追っているし、追わないといけないとは思っています。
 高慢な話ではありますが、”理想”でなく、現実になると信じて、生活や仕事をしているからこそ、わたしは迷ったり立ち止まったり行ったり来たりしながらも、”健やかな未来”を追っていると、やはり言い切らずにはいられません。それは、わたしがそうでもしないと、自分が社会の中で未来に向けて生きていると思えなくなり、社会の中でどう息をしたらいいかすら簡単にわからなくなってしまうから。
(念のための補足ですが、わたしは父のことはだいすきですし、父には発言に至った文脈が別途あります。それでもなお、言葉が独り歩きしてわたしの中に留まっていたというだけです。)

 24歳、新卒で入社した仕事をやめました。強い憧れをつくることは、平らではない双方向性の薄い関係をつくることで、小売りをすることは消費を煽ってコントロールすることから完全には切り離せないこと。だから、わたしが社会に対してしたい仕事ではない、と思ってやめました。公正を目指せる仕事がしたい、誰かや何かを過剰に煽らない仕事がしたい、相手と視線や見ている未来を合わせられる仕事がしたい、考えたり立ち止まったりしたい、優しい会社で仕事がしたい、そういうことを思ってやめました。
 これは、向き不向きの話です。わたしにとっては、強い憧れを生む小売りをすることは、わたしのしたい仕事ではなかった、というだけの話です。今も変わらず、ときめきや憧れに包まれ、高揚を余儀なくする、とっておきの魔法のようなファッションがだいすきです。きらめきがあるから過ごせる日々もたくさんあります。”ざらざら”を越えるとき、わたしは大事な洋服たちにいつも救われてきました。これからもそれは変わることはないでしょう。

 仕事を辞めてから、(正社員ではないので)仕事を休まないといけなくなってしまった時、事業がかわる時、もしも家族が増えることがいつかあったら、など、どうやって生きていけるのかをより慎重に考えるようにもなったことは多いです。だけれど、”健やかな未来”が日常になる日を信じて追いかけ続けないと、とは変わらずに思っています。そこは変わりたくないところでもあります。そして、そのためにも、私は「柔くしなやかに」なりたいのです。

 脆くはないが、鋼のようでもなく、枝葉のようなしなやかさや花びらのような柔らかさを持つことに惹かれます。25歳、自分の出来ることを増やしはしつつも、誰かと一緒に出来ることをもっと大事にしたいです。そう思いはじめた頃には、自然と己を守るための強さや美しさの強迫から、すっと離れていました。

だいぶ遠くまで来た

 わたしにとっては、誰かと共にするよりも、自分が強く美しくなることで自分の安心圏を作れるようにすることの方が、到達しやすそうだから、自力でどんどん解決していきたい、と、かつては思っていました。強さで己を守り、常に戦っていました。高慢な話ですが、すきなひとがいたときは、すきなひとの全部はわたしが守ってやるからな!と心の底から思っていました。
(わたしのその姿勢が、その人の足腰、ひいてはわたし自身の足腰を弱めていると気が付いた3年前に、それぞれが自分の足腰を取り戻したらまた友達になりたいな、と思いながら距離を置きました。今思えば、足腰が弱まっていると気が付いた3年前から少しずつ”強く美しく”ではなくなってきていたのかもしれません。)

 自分のことをすべて自分で出来ることなんて男でも女でも犬でも猫でも木々や花たち、水や火であっても起こり得なくて、そういうことが、頭ではなく、こころやからだにすっと落ちてきた24歳でした。
 わたしに出来ることは、わたしが日々増やす。わたしが守れるものがあるのであれば、わたしが守る。それと同時に、頼ってもらえる余白や関係を大事に、柔らかい存在として、頼ったり頼られたりしながら、たとえそれが到達しにくくても(というかわたしにとっては到達しづらいことなのですが)、しなやかに在りたいものです。

 これは、ある意味では、戦って勝ち取ろうとしていた健やかな未来を、戦わずに、勝ち負けをもつけずに、手に入れようとしている話な気もしてきました。高慢な話ですね。でもまあ、25歳にしかならないので、そんな感じなのかもしれません。いずれにせよ、こうやって言葉をつづって、ようやく、25歳の準備が整った気がします。
 柔くしなやかな1年になりますように。 ちばひなこ


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