見出し画像

本のガイド「曾根崎心中」角田光代

再読をしてみて

 初読のときには、女郎はつと手代の男・徳兵衛の情愛、はつの前を数多過ぎていった女郎たちの恋の語りよう、語っていた女たちそれぞれの行く末に、目が吸い寄せられ足早に読み終わってしまったが、この本「曾根崎心中」角田光代のガイドを書こうと再び読んでみると、心中に至る端緒にある二貫という大金に、人びとの疑念や諍い、愛憎が込められているように思い、ただでさえ肌寒いのに、鳥肌が立った。

二貫の出所と流転

 大坂の醤油問屋・平野屋で手代として店を支えている徳兵衛は、その精励ぶりを叔父である主人に見込まれていた。主人は、自らの内儀の姪を娶らないかと徳兵衛に持ちかける、しかも二貫の持参金をつけると、更には江戸に出すつもりの店を任せようと考えていると言う。徳兵衛は首を縦に振らない。すでに、女郎のはつと添い遂げる気持ちが固まっていたからである。しかし、叔父の話をはっきりと断るわけにもいかず、日が経っていった。じれた叔父夫婦は、徳兵衛の実家の継母に縁談の話をして持参金を手渡した。叔父たちは継母が徳兵衛にしてきた仕打ちを知らなかった。

 徳兵衛を産んだ母は産後間もなく亡くなった。後家として隣村から嫁いできた女は立て続けに子供を三人産んだ。徳兵衛が5歳の時に父は亡くなり、徳兵衛は継母に育てられることになった。父の生きている間は露骨ではなかったが、父がいなくなってみると継母はあからさまに、自分の産んだ子と徳兵衛の扱いを変えた。継母と子らが笑いながら食事をしている声を聞きながら、いつも外で働いていた。残り物を食べて飢えを凌いでいた。徳兵衛が12になると、家に置いておくのも継母は嫌になり、亡き父の弟に話を付けて引き取るようにさせた。引き取られた先が叔父の営む平野屋である。

 二貫は、結婚をする当人の徳兵衛ではなくて継母の懐にまず流れた。それを知った徳兵衛は語気荒く言い募る。

「当の本人には何も知らせんと、母親に銀をつかませるなんて、騙したも当然やないですか。そもそもこっちは縁談に諾の返事もしてまへん。結婚といえば一生のこと。それを自分の知らんところでそんなふうに決めてしまうとは一体何ごと、大金といっしょにお嬢様をいただいて、一生機嫌を取りながら暮らすやなんてこの徳兵衛にできるはずがありません。何がどうあっても、たとえ父上が生き返って懇願したとしても、この縁談お断りいたします」

 激怒した主人は、大坂の地を二度と踏むな、ただし二貫は4月7日までに返してもらうと言う。徳兵衛は、村に帰り村人の説得などを得ながら継母から二貫を取り戻した。取り戻した徳兵衛は先月28日に九平次とばったり出会う。徳兵衛が大坂に来て初めてできた友達が九平次であった。九平次は油屋の主人の息子で、いつも堂々としており、徳兵衛は九平次を兄と慕っていた。徳兵衛は歳の近い男と親しくしたことがないから、九平次にどう接したらよいのかわからなかったが、話しかければ自分のような丁稚にもあれこれと答えてくれた。そんな九平次が困っている、右手に包帯をして怪我をしているようだ。なんでも来月三日には銀が手に入るのだが、今日中に銀を用意しないといけないという。三日と言い切っているのだから入るあてが確かにあるのだろう。自分のほうは来月7日までに二貫返せと言われている。五日ほどのこと、ならば銀を貸してもよいのではないか。ここで徳兵衛は二貫を貸してしまう。九平次は右手を怪我していて、徳兵衛が代わりに手形を書き、九平次はそれに判子を押す。

 しかし、約束の期日になっても九平次から音沙汰もない。はつが他の客と観音さまの札所をめぐり徳兵衛が心変わりせんようにと祈って、その巡りも終わりに近づいたあたり、神社の茶屋で事件が起きる。はつは茶屋の座敷に腰かけている。

「おなじ背丈でもほかの人とちがうのは、背筋でも着物でもない、光だとはつは気づく。光に包まれるようにして、おもてを行き過ぎようとする徳兵衛の姿がある。はつは脚の疲れも忘れてぱっと立ち上がり、転がるようにして水茶屋の外に出た」

 ただし、事件とはこの瞬間のことを言っているのではない。茶屋のほうへ、九平次が歩いてくる。仲間内数人で酒を飲んだのか、鼻歌に手拍子をしたりとの上機嫌である。

「おまえ、三日に返すて言うた銀を返しもせんで、こんなふうに酔っぱろうて浮かれているのはどないな了見や。早よう二貫を返さんかい。」

徳兵衛が食ってかかる。

「出鱈目な男やないて信じているさかい、だいじな銀を貸したんや。おまえ、これを見てもまだとぼけるつもりか」

喚き散らしながら徳兵衛は手形を取り出す。しかし九平次は笑い出す。

「徳ちゃん、こすいまねするんやったら、もっと上手いことやりなはれ。これ、お前の字やないか。二貫、三日までにお返ししますて、お前さんが書いてはるんとちゃいまっか」

 九平次に金を貸したとき、彼は右手に怪我をしていて代わりに自分が書いたのだ、それを忘れたのかと徳兵衛は言い張る。

「こらまた、えらい調子のええこと吐かしよる。あのな、わいは先月、財布をなくしたんや、あれ、いつやったかいな」

 九平次ではなく、仲間の一人がすぐに答えた。先月の25日に財布を落とし、そのさいに役所に届出て印判を変えたのだという。届出ないと、昔の印判を拾って悪さをするやつが出てくるからと。

 茶屋には他にも人が多くいたのに、公衆の面前で徳兵衛は言葉を失って、九平次らに何も言えなくなってしまう。拾った判子で証文をこさえて金をせしめようとするのは、引廻しのうえ獄門より重い刑だと九平次は言うと、笑い出し手形を思いきり丸めて徳兵衛の顔にぶつけた。

 大坂の市中に、二貫をめぐる諍いは噂として広がってゆき、いよいよ徳兵衛は行くところを失ってしまう。茶屋での事件の後、二人はともに死ぬという結末を辿る。結末に近づいて、はつは安息を得たのかというと、その安息は平坦ではない。はつの疑念は二貫のことで徳兵衛が嘘をついている、つまりには継母から二貫を取り戻した、その二貫を九平次に貸したと徳兵衛は言っているが、本当は取り戻していないのではないか。徳兵衛に酷い仕打ちをしてきた継母がおいそれと懐に転がり込んできた二貫を手放すわけがない。二貫を用意する手立てがなくなってしまい窮した徳兵衛は、知己の仲である九平次の判子をくすねて、九平次の言っている通り証文を偽装したのではないかと。徳兵衛のことは、背中のどこにほくろがあるかも、どんな寝息を立てるのかも知っているのに、本当は何もこの人を知らないのではと、はつは崖に立たされた気分になる。しかし仮に、徳兵衛が平気で判子をくすねるような人だとして、それがなんなのだろう、そうだとしても私はこの人と旅立つ、と、徳兵衛とはつは暁の大坂を、鬱蒼とした森のほうに駆けてゆく。真相は藪の中である。


なぜ二貫に注目したか

 二貫に注目するきっかけとなったのは、「曾根崎心中」の再読と並行して読んでいた本だ。数年来買いたいと思いつつも、紀伊國屋などの大きな新刊書店にもなく、かといってAmazonで買うのは気が進まなくて放っておいた。木庭顕というローマ法学者の書いた「誰のために法は生まれた」を先週買ったのだった。演劇や映画を材として、高校生と社会の原理を5日間考えていくという本で、その冒頭、1日目が近松門左衛門「大経師昔暦」だった。近松のその作品の中でも、不透明な金銭のやり取りがあり、そこから徒党と個人の関係を考えていくというものだった。というわけで来週の本のガイドは「誰のために法は生まれた」木庭顕です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?