見出し画像

空白の時間に思う

平日はオフィスに通っていて、休日は外に出ない。外に出ないことの例外は、生活の必要を満たすときだ。食材を買い出しに行くときであったり、衝動を走ることにぶつけるときがそれにあたる。2週間ほどまえから休日の多動はとんと鳴りを潜めた。時間の色が薄くなってゆく。他人やよそのところの色がわたしという紙を染めていかない。改めてこの空白の時間に、自身の紙につつましく視線を投げかける。どのような色でぼんやりと紙を染めていきたいのか。平日まで人に会わないとなったら、視線の投げかけは凝視に代わられて、思いわずらうことになるのだろう。けども不幸なことに時勢に逆らって出社していて、顔と顔を合わせて話すことがあるから、ある考えという程度で済んでいる。

 この空白の時間でわたしは何をしたいのか、と問いかける。本を読む、文章を書く、走る、これはしたいと奥底から声が返ってくる。図書館で借りてきた本を読み、琴線をほんの少しでも振るわせた文章を書きぬいていたのが今日の昼すぎだ。昨日の春うららとは装いを変えた今日は、肌寒いなかに桜の花をついに散らせていた。うすく曇った空さえ四方の家に遮られて見えない一室で書きぬいていた。10冊ほど借りてきたからどれを読むか数秒迷って、読みさしの「力なき者たちの力」を本の層の下から抜き取った。

冷戦下のチェコで、戯曲家ハヴェルがなぜ制度を疑い、言葉で民衆を導くことができたのか。それを4週連続で取り上げた番組の解説本だ。全体主義体制に居続けるためには、自身の理性、良心、責任を対価として支払わなければならない。自分で考えて判断すること、自分の心が訴えること、自分の行為に対する応答を放棄しなければならない。読んでいて白眉だったのは、ハヴェルが全体主義に代わる次なる展望を西側の民主主義に求めていなかった点だ。むしろ彼は西側を範とすることに疑問を持っていた。ハヴェルにとって西側の社会は本当の生が実現できない存在であった。巧妙な宣伝と、絶えず与えられる情報によって何かを得たとしても、経験したとしても欲しかったものかさえよく分からない無明の路頭に迷っている、と。その状況についてハヴェルは、

「資本蓄積の複雑な構造は隠れて操作され、拡張されていく。どこにでも見られる消費、生産、広告、消費文化の独裁、そして情報の洪水。(略)
これらのいずれも人間性の回復にいたる展望のある道筋として見なすことはおそらく困難だろう」と述べている。

書き抜くまえに読んで文章を頭にいれて、それをノートに書き出していく。最後には読み上げる。読み上げてふぅと目の前の本棚の斜め上を見る。何が自分のやりたいことなのかと問い直す。わたしが幸運なのは問い直して、その返しがすぐに戻ってきたことだ。本を読むこと、文章を書くこと、何よりも誰にも誠実であること。成したいことの土台にはなすべきことがある。なすべきことをして、成したいことをする。前者をしていたらとうに午前は終わって午後だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?