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アメリカでゴジラ-1.0を観たらヒットの理由がわかった(ような気がする)

ゴジラ-1.0が北米で色々レコードブレイクしてると聞いて、調べてみたらIMAX最終日だったので、急遽観てきました。
平日の夜にも関わらず劇場は満席で、その中でガッツリ邦画を見る経験が意外と面白くて、ヒットのヒントがありそうだったのでちょっと考えてみました。
前提として僕は映画や特撮については超ミーハーで、ゴジラについても3, 4本しか観たことないので面白いか否かの話ではなく、なぜ面白がられているのかの仮説の話だと思ってください。あとシンゴジラ、ゴジラvsコングなど含めてやんわりとネタバレするのでまだ観てない方はご注意ください。

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ゴジラって日本では伝統的に「明日急に世界終わらないかな」みたいな希望と、抗いようのない不条理がもたらす絶望の二面性を持ち合わせた、神のような象徴として捉えられてると思うんですけど、
ゴジラVSコングとかを観てると、ハリウッドゴジラは「確かにヤバいけどなんらかの解決策を見出せる、結局は遠くにあり、十分にコントロールが効く脅威」のような描かれ方をしている感覚があります。(まぁ、GvsKについては"2人"のアツい友情パワーにカタルシスを感じる映画なのでコントロールできないとお話的に困るのでしょう)

ところがマイナスワンゴジラは違います。圧倒的不条理ですし、とにかく人類に選択の余地を残しません。シンゴジラと同系統です。私の好きなゴジラです。この空気感はゴジラが登場しないシーンでも感じられます。映画の前半では、「ちょっと笑える」ハリウッド的弛緩に擬態した、ピシャリと冷や水を浴びせられるようなシーンが何度かあります。最初は観客みんなでワハハと笑っているのですが、ここは笑う場面ではないと気づいてから何拍かきまずい時間が流れ、追い討ちをかけるように画面がズーン…、と思ったよりゆっくり暗転します。劇場は静まり返ってます。逼迫した、戦後まもない日本の時代背景と相まって、一息つけるような余裕が全く感じられないのです。別に邦画としてはごく普通の展開のように思えるのですが、ハリウッドゴジラのノリを期待している人の視点を想像すると相当居心地の悪い空気になっているのではないかと推測できます。なんだ今のは?いまいちスッキリとしない、鬱屈とした雰囲気が漂います。

しかしこの雰囲気こそが、分断、コロナ禍、関与できない戦争、と「今までと違ってコントロールの効かない、特効薬もない脅威」が現実に複数出現したことにより、USでも多くの人にとって馴染みのあるものになっているのではないか、というのが仮説です。整然としない不協和音を飲み込んで、グッと堪える。結局そうして生きる以外の選択肢がないから。
(余談ですが、これは9.11のテロ時の雰囲気とは異なると感じています。実態はさておき、あの時の世論としては「明確な正義」があり「報復」という具体的な解決への手がかりがあると信じられていたため)

別の見方をすると「多少の犠牲は払うかもしれないけど、みんなが力を合わせて、互いのポテンシャルを引き出せばきっとどんな敵にも勝てる」というマーベラスな話を信じられなくなってきたのも一つの要因かもしれません。

だからこそ、コントロールできないものとの付き合い方をずっと考えてきた日本人が語るストーリーこそが、今必要な希望なのかもしれません。
状況は悪いけど、決してバッドエンドと決まったわけではない。ただし今までとアプローチを変える必要があり、それには苦痛と犠牲が伴うし、一生涯を捧げることになるかもしれない。でもそうして先祖代々この地で生きてきた。
結果的にマイナスワンはある種ハリウッド的な帰結を迎えるのですが、これはお話を現実に持ち帰ってもらうための必要不可欠な儀式のように感じます。大事なのは、今の現実からでもそこに辿り着けるという希望を演出したことです。

思い出されるのはシンゴジラにおける赤坂補佐官のセリフ、「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた」です。この言葉が、本当の意味で今を生きるための指針となり始めているのかもしれません。
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とまぁ色々言いましたが、なぜゴジラ-1.0が北米でウケているのかを自分なりに解釈した話が以上です。感想としては熱線とか戦艦とか大規模科学実験とかロマン満載だったのでとても楽しかったし、素人目ですがさすがの豪華キャスト、終始ジリジリとした緊張感があったように感じます。
日本に生まれて、日本のコンテンツを浴びるように経験できる贅沢に改めて気付かされた日でした。

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