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父の軍隊手帳

今年も暑い夏がやってきました.父の33回忌の墓参をしました.父の軍隊手帳をいままでよく読んだことがありませんでしたが,じっくり読みました.

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■文字起こし(解読不明文字*が,いくつかありましたが,読者のkkさんが教えてくださり,現状になりました.何かお気づきのことあればいつでもお教えください)
昭和17年8月1日臨時招集ニ依リ東部第36部隊ニ応召◎同日山下部隊ニ編入◎・・・中略・・・[昭和19年7月,ボルネオ守備軍として外地へ]・・

◎7月3日門司港出帆◎7月16日マララ上陸◎8月15日マニラ港出帆◎9月2日ホロ島ホヘ上陸◎同日付第2方面軍司令官ノ指揮下ニ入ル◎8月14日第2方面軍司令官ノ指揮下ニ入ル◎8月14日第2方面軍歩兵大隊要員トシテ転属ノ為「マニラ」出港◎8月30日輸送船故障ノ為「ホロ」島上陸◎同日ヨリ同島警備◎10月13日第2方面軍指揮官ノ指揮下ヲ脱シ第37軍司令官ノ指揮下ニ入ル◎12月1日第37軍司令部ニ転属同独立歩兵大隊編成要員ニ充用◎12月15日転進ノ為「ホロ」島出港◎同月17日「タラカン」島上陸◎同日海軍第2警備隊指令ノ指揮ニハイル◎同日ヨリ[タラカン]島警備◎昭和20年2月26日軍令陸甲第28号及灘参編第36号ニ依リ独立歩兵第494大隊編成下令◎3月3日編成完結◎同日独立歩兵第454大隊第3中隊ニ編入◎3月3日転進ノ為「タラカン」島出港◎同日海軍第22特別根拠地隊司令官の指揮ニ入ル◎同月5日「バリックパパン」ニ上陸◎同日ヨリ「バリックパパン」市付近ノ警備◎3月15日「サンガサンガ」附近の警備◎5月9日ヨリ「マンガル」第一飛行場附近ノ警備◎6月15日敵「バリックパパン」ニ来攻◎同日ヨリ「バリックパパン」「マンガル」地区「サマリンダ」道路地区ノ戦闘ニ参加◎7月27日「マハカム」河流域に転進◎・・・◎8月25日戦闘行動ヲ停止ス◎9月20日サマリンダ飛行場附近ニ終結◎11月7日ロアバコン(サマリンダ上流6キロ)ニ移*◎昭和21年1月1日独立混成第56旅団ニ転属同日現地復員完了ス◎5月20日内地帰還為サマリンダ出港◎5月31日名古屋港到着◎同日附任陸軍軍曹◎
ーーーーー以上 父の軍隊手帳より引用 ーーーーーーーーーーー
■ 参考資料より引用
2 ボルネオ島(現カリマンタン島)
(1)タラカン島の戦い
 1(1)で触れたように、独立混成第57旅団の仮編部隊のうち2個大隊(独立歩兵第374,376大隊として予定されていた部隊)は、セレベス島への輸送途上に船舶が故障し、8月24日にホロ島に上陸した。この両大隊をセレベス島へ前送すべく、9月26日に輸送船立石丸がホロ島に到着したが、これもホロ島で撃沈された。なお、独立混成第55旅団砲兵隊の藤岡明義軍曹の手記によれば、同年10月、ホロ港外に沈んでいたセレベス行きの船から野砲1門、砲弾30発を引き揚げ、これを55旅団砲兵隊が装備しているが、この沈船が立石丸で、セレベスに輸送する野砲を積んでいた可能性があるものと思われる。

 そして、台湾沖航空戦(により米機動部隊が壊滅したとの誤判断)により、米軍がボルネオ北東部に基地航空の足場を求めることが想定されたことから、ボルネオの戦備強化のため、10月13日、ホロ島所在の独立混成第57旅団の2個大隊は第37軍の指揮下に入ることになった。しばらく便船を待ったのち、12月9日、まず両大隊の本部及び各1個中隊が、日本軍の重要な石油基地だったタラカン島(地図はこちら)に移動。同18日、友軍戦闘機1個中隊の直協を得て、後発本隊も輸送船満洋丸によりタラカン島に上陸した。同22日、両大隊は指揮外の小部隊も編合し、歩兵4個中隊、銃砲隊1個中隊を有する独立歩兵第454大隊(長:山田光秋少佐)、独立歩兵第455大隊(長:常井忠雄少佐)として編成された。

 その後、この2個大隊はタラカン島を守備していたが、昭和20年3月4日、454大隊はバリクパパン(地図はこちら)に転用される。結局、タラカン島守備隊は、455大隊約860名、海軍第2警備隊(司令:香春博中佐)約500名、その他燃料廠関係者や後方部隊などを含め合計約2,000名の陣容となった。そして、5月1日に上陸した連合軍を迎え撃って健闘するも、次第に圧迫され、6月中旬に密林内に分散して遊撃戦に移行、そのまま終戦を迎えている。香春司令は7月3日、常井大隊長は8月10日に戦死。守備隊の生還者は、455大隊の副官代理だった宮地喬中尉の手記によれば2,173名中576名、このうち455大隊の生還者は796名中169名。また、第37軍作戦参謀の岩橋学中佐の記録によれば、455大隊の生還者は913名中176名とされている。

 なお、タラカン島の戦いの経過については、上述の宮地中尉の手記の中で詳しく述べられている。あまり広く知られた戦闘ではないが、後方部隊や在留邦人も含めて頑強に抵抗し、善戦敢闘した戦いと評価されるべきではないかと思われる。また、タラカン島は全島至るところから石油を産出するような土地で、密林内の小川にも石油が混じった薄茶色の水が流れており、そのおかげでマラリア蚊が生息しなかったという。宮地中尉は、タラカンでマラリアにかかった者はいなかったと証言しており、南方戦線では珍しい事例と言えるだろう。

(2)バリクパパンの戦い
 バリクパパンの防衛兵力は、海軍第22特別根拠地隊(司令官・鎌田道章中将以下約3,000名)、タラカン島から転用された454大隊の主力、燃料廠や現地召集の邦人なども含めて、合計約1万名だった。また、バリクパパン北方のサマリンダに、454大隊の1個中隊、海軍部隊、現地召集邦人3,000名、合計約5,000名が駐屯していた。

 昭和20年7月1日、約3万の連合軍がバリクパパンに上陸した。454大隊主力はバリクパパン近郊のマンガル飛行場を守備していたが、7月6日に陥落。以後サマリンダを経て奥地に後退し、終戦を迎えている。海軍第22特別根拠地隊の先任参謀だった辻橋文吉大佐によれば、バリクパパンから撤退して以降、連合軍の追撃は甚だ緩慢になったという。上掲の岩橋中佐の記録では、454大隊の兵力は846名、うち生還者635名とされている。
ーーー以上 http://yryk.seesaa.net/article/465428754.html より引用ーーー

■父の軍隊手帳の太字部分と,参考資料の太文字部分が合致しており,次のようなストーリーが明らかになりました.参考資料はどなたの著作か知りませんが大変貴重な資料となりました.

昭和19年10月17日,マッカーサーの比島奪還作戦の始まりで,レイテ湾口のスルアン島に上陸が始まった日です.大和を旗艦とする連合艦隊の主力艦隊は,10月22日8時,ボルネオのブルネー基地を出撃し,レイテ湾に向かいます.10月24日は比島内海シブヤン海を東進するも,航空機の護衛なし艦隊は壊滅的な被害を受け,28日にブルネー基地に帰還します.連合艦隊は油田のある所に住まねばならず,ボルネオのタラカン島やバリックパパンの油田の守備に特別根拠地隊がおりました.この時期は,米軍や豪軍が,比島やボルネオに次々と上陸してくるという戦況でした.父の軍隊手帳によると,8月30日輸送船故障ノ為「ホロ」島上陸の記録があります.その後,部隊編成兵力補充や,転進また転進で,ホロ島,タラカン島と移り,やっつと3月5日にバリックパパンに上陸し,警備任務にあたります.6月15日敵「バリックパパン」ニ来攻◎同日ヨリ「バリックパパン」「マンガル」地区「サマリンダ」道路地区ノ戦闘ニ参加◎7月27日「マハカム」河流域に転進 とあります.7月27日以降は,終戦まで密林内に分散しての遊撃戦に移行したのです.食べ物がなくて,サルやいろいろな動物を食べたという話を聞きました.

■父は物理学校を卒業し,高千穂光学(オリンパス光学の前進)に入り,幡ヶ谷の会社のすぐ近くに住み,休日には,家に仲間がやって来て研究会をやり光学技術者として楽しんでいたそうです.この時期は新婚だった母も楽しい日々であったようです.昭和17年8月1日,召集令状により徴兵されるまでのほんの短い楽しい日々でした.そして,昭和19年7月3日に門司港より南方外地に出征します.私が生まれたのは,父が転進によりホロ島を出港する時期に相当します.母は幡ヶ谷で生まれたばかりの私と住み続け,間もなく始まる空襲では,押し入れに私を入れた柳行李の周りに布団を積み上げ,高射砲の破片から私を守ったそうです.東京空襲で家は全部燃えてしまいましたが,母と私は疎開し生き延びました.父は捕虜生活を送りましたが,昭和21年5月20日内地帰還為サマリンダ出港◎5月31日名古屋港到着とあります.父が無事帰還できたのも運のよいことでした.赤ちゃんや子供が病気や栄養失調で亡くなった時代ですが,母も私も終戦後の混乱期を東京で生きぬきました.父は,帰国後もとの地に行き,灰燼に帰したことを見聞しダメかと思ったそうです.お陰様で,運よく3人そろって無事に再会ができました.

■ 記事を追加します.判読できぬ箇所は昭和19年4月1日~7月3日の門司港出港までの記録で,重要なことがかかれているような気がします.なにかわかりましたらお教えください.

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昭和17年8月1日臨時召集ニ依リ東部第36部隊ニ応召◎同日山下部隊ニ編入◎昭和18年2月1日一等兵◎昭和18年2月10日兵科幹部候補生ニ採用◎4月1日上等兵ノ階級ニ進ム◎同日乙種幹部候補生ヲ命ス◎5月20日宝木部隊ニ令遣ヲ命ス◎9月1日伍長ノ階級ニ進ム◎昭和19年3月23日原隊復帰◎3月31日任伍長◎同日昭和17年陸亜密第759号ニ依リ満期除隊◎4月1日引続キ臨時召集◎同日第1機関銃中隊附◎渡第1600部隊要員トシテ転属ノタメ6月17日屯営ヲ発◎

(注)最後の未解読箇所:非*キ→引続キ と判明し,全文解読されました(11月30日).ご教示いただいた皆様ありがとうございました.

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