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架空線カクテル喪失

「映画というか架空のドラマのようなものを観たんだけども、その物語のなかで甘い酒が好きだと言うシーンがあって、こちらは
「そうか」
と平たく受け止めて納得してたら、
「本質的には多分甘さよりも香りが重要なんじゃないか」
という話になっていった。
セリフはうろ覚えだけど、
「それならこの前見かけた、いろんなお酒に直感でスパイスを混ぜて好みのカクテルにしてしまうやつをやってみよう。」
「いろんな種類のスパイスを瓶に詰めて。そうだな。置き場所がないから…壁に棚を作って、そこに並べる。市販小瓶じゃ機密性が低いから密封できる瓶の容器を買ってきて、ふたりで名前のラベルを書こうよ。」
「その日の気分で、スパイスを混ぜて適当なスピリッツに入れてさ。お酒だって、その日によって変えたっていいし。失敗したって最後までのむんだぜ。」
みたいなことを言っていた。
「よくしゃべるな」
「それはなかなか面白そうだ」
とか少し小っ恥ずかしい感覚をはぐらかしながら眺めていた。
こういうふたりだけの尊いシーンを第三者目線で実際に目の当たりにすることって、泥棒とかやましい動機でうっかり部屋に入ったりして、慌ててクローゼットとかに隠れでもしない限り人生でお目にかかることがないはずなので、どちらかの主観でないといまいち入り込めないというか覗きっぽくなるのでちょっとそわそわしたりする。なんかしらの意図があれば助かるけど。

それから、いつの間にかお気に入りの味がわかってきて、あんなにたくさんあったのにそればっかり使うようになっていく。
「どんな色が好き?って小さい頃に歌った、あれみたいだな。」
と1番先になくなるお気に入りのクレヨンのことを思い出していた。クレヨンは好きな色でもぬるが、絵の具と折り紙は取っておきたかったなと思い出していたら、そこまではすごく素敵だったのに、というのはラブストーリーには付きもので、
———生活が変わって途端にどちらともなく離れ離れになって、新しい人と出会って、もしくは独りになって。薄暗いキッチンの壁に並んでいた、たくさんの瓶を思い出している。目の前にはあのとき知った好みの数本が人生の一部みたいに当たり前に並んでいて、もう一度あの壁に会いたいと思うけれど、他の誰かと繰り返したとて理由もわからない涙がこみ上げてくるだけで。同じことがしたいのではない。あの時が懐かしいのだ。———
みたいなところが切なかった。

どうしようもなくなるのもわかるけども、もう次の相手いたりするのに勝手に思い出して涙が溢れてくるのは典型的なセンチメンタリズムなのかなぁって思ってたらちょっと暗くなってきて、失いたいとか満たされることへの恐怖とか、幸せすぎるとここにいてはいけないという強迫観念がとかの流れがきて、
「なるほど」
となっていた。
ちょっとよかったのは、そのくせ想像してるのが相手の悲しそうな顔だったところだ。自分がかわいそうでいたわけではないみたいだった。さっきは神の目線でふたりのいちゃいちゃをみせてたのに思い出す時はそれぞれ別々の視点であの頃とか今ごろの相手のことを想うというのがなんとも乙なもんで。と思ってにやにやしていたら、さては自分との記憶をなぞって切なそうにしている相手の顔がたまらないんだな、みたいなことが脳裏をよぎった。もうそこにはいないと言うのに、思い出してしまっているという時間の奪い方が蜜の味なのかもしれない。
まあ”実際には見たことがない”悲しそうな顔なので、そんな顔してるかどうかなんてわかんないし、見たことない顔想像してるだけだし、多分そんな顔してないことの方が多くて、架空の状態の相手を爆裂センチメンタリズムによって脳内に召喚して悦に浸るというなかなか高度なやつなんだけども。あんまみたことないとは思う。
もう戻れないというただの望郷とも違う、破局の先にも、それでもまだ自分を思い続けてくれているだろうかという期待。正常な関係性を維持し続けることができないと言う無責任さ。それぞれの稚拙さから手放した関係性。責任から解き放たれた開放感。それでもなお、相手が自分を思い続けるというわがままな理想。なんと、自分勝手な、恐ろしく恥ずべき、とんでもない、快楽だ。

うじうじしていてとても良い。
罪の意識に生かされているぅう!
雄一おじさんったら。また踏切で。」

という架空のドラマのようなものの話


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