その名前を所持しているかについて

1年くらい前に、恋人に「あなたは愛があるひとだから」と言われた。
その時のわたしの反応は、「怒る」だった。

彼からしたら、褒めたのに、いいところを伝えたのに、「そんなもの持っていない」と怒るなんて想像もしていなかったと思う。実際にとても困っていた。

わたしは自分のことを、つめたくて、大切にされたり好意を向けられることにひどく鈍感で、もし気付けたとしてもその分嫌な気持ちを返してしまうような人間だと思っている。
意識をして自分の中で変換しないとひとには優しくできないし、誰かに愛情を持ったことを自覚したことがない。

好きな人はいる。母親のことも、友達のことも、恋人のことも。好きだから一緒にいる。
でもそれは愛とはちがう。これは愛とかそういうまるいものではなくて、もっと小さな、表面的な。うまくはいえないけれど、これは愛じゃない。

この時から、わたしは自分の中にある愛をさがすようになった。
誰かに与えられてもそれを返す理由にはならないと思った。わたしが誰かに向けた好意が同じ量で返ってこない時が今まででたくさんあった。それに傷つくことも多かった。だからいつからか返ってこないもの、返すものではないと思うようになった。

自分はあまりやさしい人ではないと思う。やさしい人だね、と言われることもほぼない。むしろイライラしやすい方。
好きな人に対してすべてを許せることは到底ない。何かの反応をする時にぐっと抑えることがしばしばある。
好きだから我慢していることが沢山あって、許しているふりにも見えるかもしれない。
それが積み重なって決定的なことが起こった時に、ぷつりと関係を終わらせてしまってきた。

これはあまりにも愛とは呼べなさそうだ。
一瞬、わたしが愛と思っていないだけで実はこれが愛なのか?と思ったこともあったけど、愛にしては軽薄なものだ。
わたしには愛がない、そう思った時、とても楽になった。探しづらい、本当なのかもわからないものを一生懸命探すよりも「ない」と割り切って上手に付き合っていくほうが楽なことに気付いた。

愛が欠落していても、人を好きになったりものを大切にすることはできる。愛がない代わりに他のものを持っているかもしれない。ギブもテイクもできなくても実は困らないのかもしれない。

友人がたまたまTwitterで「愛がある人だと言われてとてもうれしい」と言っていた。彼女にはその自覚があるんだろうな。持っているからほめられると嬉しいもんね。

恋人は変わらず「愛がある」と言ってくれる。
わたしはもう怒らない。彼にはそれが愛という名前で、わたしにとっての愛はまた別のもの。それだけ。

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