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すべての幸福な人は同じ顔をしていない

すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。

上に引用したのは、小説『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一節。「幸福」について述べた格言は数あれど、その中でも特に有名なものではないかと思います。

小説の主人公アンナは、人妻でありながら道ならぬ恋に身を焦がし、情熱的で波乱に満ちた人生を歩みますが、恋人の将校とともに段々と不幸の底に落ち込みます。

一方で将校に振られたアンナの義理の姉妹キティは、真面目な田舎地主と結ばれ、極めて平凡ですが、しかし幸福な人生を手に入れるのです。

さて、これは19世紀のロシアの話です。世界文学には普遍的な真理が含まれるとは言え、帝政ロシアと今の日本では天と地ほどのへだたりがあります。

■19世紀ロシアと21世紀日本の違い

19世紀のロシアでは、選挙は制限され、性は不平等、ユダヤ人や少数民族は苛烈に差別され、宗教は厳格に人生をしばり、民のほとんどは教育程度も低く、人々は生まれた土地から離れることは稀で、貴族がペチカで暖もってお茶を飲んでいる間、庶民はウォトカで凍死を免れるか、運悪く死んでしまうかという生活を送っていたのです。

ひるがえって現代の我々は、両性の平等は憲法で規定され、性的少数者の権利が堂々と主張され、人種差別も悪とみなされ、信仰と言論と移動の自由もあり、識字率は100%に限りなく近く、金持ちも貧乏人も同じユニクロを着て、高度な医療も行き渡り、エアコンや携帯も最低限の文化的生活の範囲として認められています。

■豊かで自由な社会はコモディティだけでは幸福になれない

そうなると、19世紀のロシアと何が違ってくるのでしょうか? 結論からいうと幸福のバリエーションが多様になります。

19世紀ロシアに生きていれば、食べるものがあって、屋根と暖房つきの家があって、家族が息災で仲良ければ幸せ、それ以上を望むのは強欲だということになります。恵まれたアンナのような上流階級は、それら与えられた幸運だけで満足できないがゆえに不幸に突き進んでしまい、キティは正しく受け取ったがゆえに幸福になったとも言えます。

一方で、現代の日本では、食べ物も家も長生きもコモディティ化しました。家族が仲良いというのは相性と努力次第ですが、そもそもおひとり様でも十分豊かな生活は送れます

もちろん、貧困問題が解決しているとは言えません。しかし日本にあるのは19世紀ロシアや途上国の絶対的貧困ではなく、一般的と国民的合意がとれる水準の豊かさが享受できないという相対的貧困問題なのです。

社会が貧しい時代は、衣食住が足りた人たちは足りない人に同情し、その問題を解消しようという動機付けが強く働きます。しかしガルブレイスが「豊かさの弊害」として指摘したように、社会が豊かになると、人々は自分が手に入れられるものを入れられない人たちに無関心になります。そして、関心の対象がまだ自分の手に入れたものを入れられない他者から、自分自身へと向いていきます。

つまり絶対的貧困ではなく、相対的貧困が深まるような世の中になると人間は他者と比べて持っているから幸福だとは感じられなくなり、コモディティ=生きていくのに問題のない衣食住がそろっているだけでは満足できなくなるのです(ただし、他者と比べて持っていないから不幸だという感覚は残ります。さらに言えば、それ自体が相対的貧困の本質です)。

そうなれば、以前は強欲だとみなされた、必要充分な衣食住を超えたニーズでも、強欲とはみなされなくなります。強欲は望む必要のないものを望むから強欲です。衣食住がない状態ではそれらを手に入れるために時間とエネルギーを消費し、それらを手に入れた人々はまだない人たちに供給するために、つまり社会を豊かにするために時間とエネルギーをそそぎ、自分がより得るために時間とエネルギーを遣うことを強欲と言いました。

しかし衣食住が社会全体で満たされ、コモディティ化した後では、衣食住を追いかけるだけでは余る時間とエネルギーを自分のために遣うこと、そしてその使い道を求めることは強欲ではなく必需になります。

■豊かで自由な社会は、それぞれの仕方での幸福を求める

では、現代の必需であるコモディティではないものとは何か。それは、例えば自分が厳選したり、オリジナルで拵えたモノなどという話になってきます。自分の個性の表現や自己実現といった「他の誰でもない、自分にとって意味のあるもの」です(完全に余談ですが、19世紀にも大量生産で失われる個性を見つめなおそうとアーツ&クラフツ運動や民藝がありましたが、結局贅沢品とみなされました。しかしそれは早すぎただけで、製品イノベーションが消費者ニーズを飛び越えて当たり前になった現代で初めて本来の意義が社会的に認識されるはずだろうと思います)。

つまり、豊かな(消費)社会では「他の誰でもない、自分にとって意味のあるもの」へのニーズが高まるのです。つまり、人生をオリジナルのものにカスタマイズしたくなってくるのです。

これらは「マーケティング4.0」「モチベーション3.0」「好きなことで生きていく」「没頭への支援」「儲かるよりワクワクするか」「モチベーション格差の時代」というような、昨今のライフモデルのキーワードと軌を一にします。

つまり、幸福は、他の誰のものでもない、自分だけにとっての幸福が大切ということになってきます。トルストイの格言も「幸福な家庭はそれぞれの仕方で幸福である」と書き換えなくてはいけないのです。

■我々は「自由意志」を発揮する機会をはじめて得た

懐古主義的には「清貧と質実剛健を重んじていたはずの日本人の精神は失われてしまった」と悲嘆すべきなのかも知れません。ですが、私は素直にいいことだと思います。個人個人がめいめいの幸福の形を探るということは、社会が豊かであると同時に、精神的に成熟していることの証でもあるからです。

例えば、長時間労働や飲み会への強制参加が忌避されるのは日本人のやる気がなくなったからではありません。価値観が多様化したからです。一生懸命働くのも、会社での人間関係構築に投資するのもいいけど、家族や大事な友人と過ごす時間も大事だよね、地域社会に貢献することも誇らしいよね、自分の趣味を極めるのも楽しいよねということです。

一方で、仕事に自分だけの意味を見出している人は、エコノミックアニマルと言われた頃以上に仕事に没頭し、その時とは比べ物にならないくらいの集中力と効率性を発揮していたりもするのです。そのようなことは、金銭や社会的評価という外発的動機付けではなく、内発的動機付けで動くがゆえにはじめて可能になります。

衣食足りて礼節を知るじゃないですが、外発的動機付けよりも、内発的動機付けで振る舞う方が、成熟していると言えるのは論を俟たないでしょう。

もちろんそのような人ばかりではないでしょうが、そのような人が出やすい状況に歴史上はじめてなったのです。つまり生存欲求からくる不安や怒りに振り回されずに、本当の「自由意志」を発揮する機会を、一部の特権階級だけでなく国民全員が得たということです。

貧しい時代は一種の統制経済的な状況ですから、効率のよい資源配分のため、家族はかくあるべし、仕事はかくあるべし、礼儀は服装は性欲は食欲はかくあるべしという規範が正当化されました。

現在は規範に従わなくても、定型的な家族や人生をはみ出ても、生存の危機にさらされずに、自分の信念や心の向く方向に進めます。

これがいいことでなければ、何がいいことなのでしょう? 

■現代の幸・不幸について

現代は低欲望社会だとも言われます。ただ、これは半分本当で半分嘘だと私は考えています。

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビの三種の神器、その後のカラーテレビ、クーラー、自動車の新三種の神器、ブランドブーム、CDブーム、携帯ブームなどがあった頃は、それらは何としても手に入れたいものでした。

しかしすべてはコモディティ化し、頑張らなくても、あるいはちょっと頑張ればそれらは手に入ると気づいてしまった現代人に、何としても手に入れたい共通のものはなくなりました。

だからモノが売れないと言われるわけですが、それは分かりやすく売れるものがないという話に過ぎません。

それが今は何かは分からないが、本当に気に入って、自分自身のためにこの世に生まれてきたような運命の何かに人々は出会いたいとは思っているのです。その意味で、低欲望社会というより、より高度な欲望の社会に移行したとも言えるでしょう。だから半分嘘ということです。

半分本当なのは、『絶望の国の幸福な若者たち』のように、未来に不安を感じるがゆえに、今この瞬間に充足する若者のような、あるいは「他人や社会に期待するな」という最近流行りの処世訓に象徴されるように、期待水準を下げて幸福感を感じやすくするように、求め過ぎないことで充足しようという生き方もやはり選好されやすい状況はあるからです。

ただ、求め過ぎない人々の中にも、そのために生き、そのために死ねるような自分にとっての特別な意味があれば、それに飛びつくのは想像にかたくはありません。そういったものに出会える見込みが薄いから、求め過ぎない選択をしているとも言えます。

ひるがえって現代の不幸とは、自分だけの特別の何か、没頭できる何か、そのために生き死ねる何かに出会えていないからだとも言えるでしょう。

そうなるとすべての「不幸な者は互いに似ている。幸福な者はそれぞれの仕方で幸福である」と言うこともできるでしょう。

かつては生きるのは困難である、しかし幸福を見つけるのは容易い時代でした。今は生きるのは容易い、しかし幸福を見つけるのは難しい時代だと言えましょう。飢餓が克服され、医療も充実してなお「生きづらさ」がたびたび取沙汰されるのも当然の理なのです。

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