11年ぶりの日本帰国、浦島太郎感での慣れない日本暮らし、四十路中年の試行錯誤と転職...: 2022年の所感と2023年の展望

さて、あっという間に2022年も残りわずかとなり年末モードである。2022年は個人的に11年以上ぶりにシンガポールから日本帰国をした年で、公私とも大変に忙しない1年だった。そうした事もあり、結構な長文になってしまったが今年の振り返り、所感など述べておこうと思う。

特に情報価値等はない、海外に長らく住んで浦島太郎的な形で日本に帰国した中年のおじさんの感想程度のものである。そうした前提でご理解頂けると幸いである。

大変に忙しかった2022年

今年は個人的に大忙しであった。1月にNUSのコンピュータサイエンス修士の卒業を確認、2月には妻子に先駆けて日本帰国、先発隊的な形で住居の確保、保育園の見学選定、生活立ち上げ等始めて日本での仕事開始、少し遅れて妻子も帰国して本格的に新生活開始、育児に会社での転職直後の成果出し…とバタバタし、年後半には仕事側で更に急展開をして再度転職を決め、年末である。何というか、とにかく忙しなかった。

日本帰国後の生活全般について

まずはこの点について久しぶりに日本に帰国した浦島太郎的な視点で雑感をまとめておきたいと思う。善し悪し両面ある。まずはネガティブな方から出し切ってしまおう。

ネガティブ1:日本の育児環境の相対的な難易度の高さ

まずは日本の育児環境の相対的なハードさ(と言うかシンガポールが世界的にも異例に恵まれていると言う事とは思うが)の洗礼を受ける事になった。

  • 保育園の空きが特に郊外に行く程ない。

当初は都心から通勤1時間圏内位で節約郊外ライフ的な事を考えていたのだが郊外は保育園の空きがない。一方で都心の区は財政が潤っているのか保育園も充実している上に育児支援が手厚い。結果、家賃が多少高くても仕方ないので都心に住む方向に変更した。

  • ヘルパーさんがいない。

ヘルパーさんをフルタイムで比較的安価に雇用出来る環境と言うのが世界的にも恐らく中東、香港、シンガポール等限られると思うので、海外ではナニーさんを雇うのが常識でぇ〜ジャパン遅れてるぅ〜、等と出羽守じみた事を述べる積もりはない。また途上国から出稼ぎのヘルパーさんを比較的安価で雇用すると言う所の格差社会云々の是非はあり安易にこうした制度を称賛するつもりもない。

しかし現実的な話として、家庭に大人が3人いて、ヘルパーさんに家事、保育園送迎、子供が風邪ひいた際の病院通院や世話、夫婦で時にはデートする際に子供を見てもらう、と言った事が出来るのと出来ないのとでは大きな差がある事を痛感した。これは例えば日本で祖父/祖母の力を借りる、作り置きサービスや掃除のアウトソース等で出来る限り家事をアウトソースしても尚、自宅で働いてくれる大人がフルタイムで1名スタンバイしているのとそうでないのとでは育児の難易度に大きな差が出る事を実感した。

ネガティブ2:東京のアジア内地方都市化を痛感

加えて、11年ぶりに日本に帰国して東京のアジア内地方都市化を実感した面はある。

  • 外資系企業東京オフィスの「地方営業所化」

まずはこれである。主にITバブル崩壊〜ライブドアショック〜リーマンショック位の2000年代を東京で過ごして来た自身のイメージでは、外資系企業のアジア本社は東京であり比較的多くの外資系企業がフルラインの機能を備えている印象があった。一方で2010年代をほぼ全てシンガポールで過ごし、2022年に久々に浦島太郎的に日本帰国してみると、アジア本社は香港やシンガポールであり、東京に(製造業で言う所の)開発/製造/販売/バックオフィスまでのフルラインのビジネス機能がないケースが増えているように感じた。例えば外資系勤務でそこそこ高給取りになれる仕事が東京では営業位しかないケースが増えているように感じた面はある。

  • 全体的な税金や社保料の高さ、手取りに直した際の年収の厳しさ感。

次はこの点。円安もあるが、海外と比較してしまうと中々に哀愁漂う案件が職探しの中で多かった。英語不要の仕事だと特にその傾向はあり、英語+応分の専門性の仕事を選ぶ事で自身の価格維持を図る必要がある感があった。

  • 生活の利便性面での微妙さ。

11年前に日本を出てシンガポールに来た際は「やはり日本のおもてなし精神は凄いな、日本は便利だな」等と思ったものだが、今日本に戻ってみると「シンガポールの方がITが発達していて便利だった」と思う事が増えた。コロナ対応等もシンガポールは非常に洗練されておりワクチン接種の予約等もスマホで簡単に完結していたし、移動もGrabがあり日本のタクシーよりも安価で直ぐ来る等も含めて便利だった。そう言う便利さで比較すると東京の方が不便感を感じる事が増えた。

その他、子供の教育をどうするかについては、現時点ではあまりピンと来る先が見つからないでおり今後の課題と感じている。

住めば都:東京に戻って感じたポジティブ面いくつか

一方でポジティブな面も多くあり、以下だろうか。

  • ご飯が安くておいしい。コンビニすら素晴らしくおいしい。無名のレストランでも美味しい店が多くあり層が厚い。安い寿司でもおいしいし、日本の野菜、生牡蠣や果物がスーパーで容易に手に入り安い、おいしい。

  • 四季があり季節の変化がある。季節ごとの果物などもあるし紅葉の公園を子供と散歩する等大変に趣があり良い。

  • シンガポールも公園は多くあり良い点だったが、東京都内も案外大小様々な公園が多くあり「子供を遊ばせられる安全な自然」が都内に豊富。

  • 国内旅行で行く場所が多くある。子供にも牧場で牛や羊等を触らせる、いちご狩り、海べりで貝殻拾い、等等のシンガポールではしづらい初期教育体験を週末で色々させることが出来る。

  • 「子連れに対する世間の目」的なものが思った程は悪くない。例えば電車やバスでベビーカー子連れで居たら肩身が狭い等と言う事を当初想定していたが案外少なく概して穏便。「かわいいですね」「大変ですけど一番楽しい時期でもあるので楽しまれてください」等と声がけ頂く事もある。

  • 都心の区であれば初期教育、保育園や育児サポートもかなり充実している。認可外では英語/インターナショナルの保育園、モンテッソーリ教育、認可保育園でも複数の選択肢があり、比較的幅広い選択肢が(認可外は応分のお金を払えばにせよ)ある。

  • 仕事についても粒度を細かくして見てみると、このビジネスユニットについては東京が現在も比較的プレゼンスがある、日本企業だが案外海外でも一定のプレゼンスがあり日本人メリットを享受しつつ東京から国際的な仕事が出来る、と言った仕事がまだなくはない。過去の栄光の残り香的なものが11年前対比でかなり減った、今後どうなるかと言うのは懸念点ではあるにせよ幾らかは現在も残っている。

  • 働き方改革による所が大きいのだろうが、労働環境が11年前よりも飛躍的に健全でホワイトになった。また、コロナ禍の副産物だろうがリモートワークや時間面のフレキシブルな働き方も以前より定着し、保育園送迎等の育児との両立がし易くなった。

  • 保育園の送迎や週末に公園で子供と遊んでいる中で父親と子供の組み合わせを多く見る事でも実感するが、父親も育児の役割を一定程度担うのが比較的普通になった感がある。

  • よく歩く。シンガポール在住時は日中暑い事、Grab等容易に使える事から健康上必要な1日8000歩以上というのは結構意識しないと確保出来なかったものだが、東京だと比較的容易。通勤時の最寄駅までの徒歩等を寄せ集めると結構歩いており、日本人の健康/長寿に貢献しているのではないかと個人的に感じた。

2022年の1年で、こうした善し悪しを11年ぶり、ライフステージも変わった中で体感し、戸惑いながらも適応していくと言う感じであった。

仕事について

仕事については、中々難しい1年、理転しても中々に上手に進路変更とは行かないものである事を痛感した、試行錯誤の過渡期的な1年だった。

帰国直後は充実感もあったが…

日本帰国後は某外資系大手企業にて、プロダクトスペシャリストと言った位置づけでマルチアセットポートフォリオ管理、リスク管理関連プロダクトの専門家、と言った立ち位置での仕事に就いていた。

最初はPowerBIを用いたData Visualizationのプロトタイプ作成等について東京でそれが出来るリソースがなかったのでそれを受け持ち、NUSの実践編の授業で学んだ事を正にほぼそのまま活用する事で、最初の成果を上げる事が出来た。加えて、株式ファクターモデルの日本での布教活動、数学的側面の解説等を行う事で金融文系から理系に転じた人風味の仕事はそれなりに出来、短期間である程度の成果を出す事は出来た。

また、企業カルチャー的にも、英語が公用語、インターナショナルな文化の中でコラボレーション、協業が推奨されており、人的にも全体として接しやすい人が多かった。カルチャー面では大きく不満に思う所はなかった。

徐々に感じる東京=営業オフィス、の違和感

しかし基本的には東京は営業オフィスであり、プロダクトスペシャリストとは言っても基本的には営業であり、東京にいる限りは営業以外のキャリア開発余地が非常に限られている事を勤務するに連れて理解する事になる。仕事の8−9割がたはパワポによるプレゼンやデモ、その他営業に関連した社内調整や会議等であり、PythonやSQLを書く機会、データを分析する機会が残念ながらない事を痛感する事になった。

人事評価を決める主たるKPIはあくまでプレゼンやデモの回数で営業としてのそれであり、序盤に上記のPowerBIやファクターモデルの話等に携わった後は、顧客にアポを取り定型のプレゼンやデモをし続けると言うのが今後評価をあげるためのToDoである事を徐々に理解していく事となった。これが外から見える印象より多忙であり、1日の殆どが顧客へのプレゼン/デモやそのための準備としての社内各所とのミーティング、顧客への電話、と言った形になる面があった。忙しい時はランチやトイレの時間もない場合もあった。

プレゼンや営業については意外な事に、案外「ある程度出来てしまう」面があり、お世辞にせよ有り難くも社内外からお褒めの言葉を頂く事さえあった。営業に対して苦手意識があるからナチュボン街道を爆進していた自身としては我ながら新鮮な発見の面もあった。しかし、やはり営業のキャリアが性に合うかというと、これを中年から壮年の10年間のメインの仕事にして情熱を維持するのは難しいという事を実感していく事になった。

社内で良い成績を上げている営業さんを見るにつけ、本当に営業が好き、顧客を外堀=現場から埋めて行き、本丸=予算/権限を握っているキーパーソンまで戦略を立てて到達し、リレーションを構築する過程に醍醐味を感じて仕事をしているように見られた。一方で、自身がそうした過程に面白さを見出せるかと言うと微妙な面は否めなかった。営業が「ある程度出来てしまう」と書いたが、「本当にデキる」営業になれるか、そもそもそうなって壮年を迎えたいのかと言うと違和感がある事も自覚するようになった。コードを書いてデータを分析したい、そうした中でプレゼンや管理職業務なりもやる、と言った位置づけを欲している自分がいる事を自覚する事になった。

これはMBA取得後のキャリアチェンジに賞味期限があるのと似ていると思うが、大学院で理転したと言う事を転職で使える賞味期限もある。あまり長い間今の営業メインでコードを書かない、データ分析しない仕事を続けてしまうと、数年後にはもう「営業の人」で完全にキャリアのポジショニングも定着してしまうし、データサイエンス関連スキルも錆び付いてしまうであろう。

結果、四十路も佳境にして1年以内で早くもキャリアを仕切り直ししようと言う運びになって行ったのであった。レジュメを書き直し、ヘッドハンターにあちこち連絡を取り、面接を入れていく事となった。

四十路佳境の短期転職…

と言う訳で日本帰国、新しい職場で最初の成果を出したのも早々に転職活動と言う事になった。しばらくの間は金融業界におけるデータサイエンス関連職の類と、非金融業界、純粋なるテック業界におけるデータサイエンティストやビジネスアナリスト的な職を並行して探していった。

もちろんこの歳になると、「お祈り」も多い。シニア向けの職で相応に年収を出すポジションの求人はそうそう頻繁にあるものではない。機械学習の先端分野の理解やアルゴリズム選手権的な能力面を要求される職種では自身の経験能力ではアンダースペックで落ちる事もあったが、逆にオーバースペックで落ちると言う事も比較的あった。数年金融経験があってちょっとVBAとか書ける位で良い、シニアのサポートが出来る位の知識経験で良いと言う所に自身ではToo much→お祈り、英語力はそう必要ないし想定年収的にToo much→お祈り、等の話は日常茶飯事である。

何社か受ける中で、テック業界はやめにする事にした。自身から金融の部分を取り除いて純粋に「アルゴリズム選手権」でのみ勝負すると言う形になると、やはり知的瞬発力の高い若い人かつコンピュータサイエンス専業者に軍配が上がるようにも感じたし、自身の経験蓄積、年輪から来る味わいなり良さなりが出ないように感じた。また、カルチャー的に「若い人中心のウェイな雰囲気」の中でやって行く心境でもないし、理系Phd卒の人が過半と言った理系度数が高すぎる先等も自身にはToo muchだなと言う事を感じるようになった。そうこうしているうちにテック各社の採用停止やリストラの話が流れるようになっていった。

一方で、金融業界の長い経験とCFA/CAIA資格の裏付け、英語可能、海外大学のCS修士でリスキリングしてPythonや機械学習がある程度出来る、と言う言わば金融/ビジネスとテックのハイブリッド的な組み合わせは、当初はすぽっとはまる場所が中々なくてついった居酒屋で愚痴りくだを巻く等したものの、次第にニッチにせよ需要はある事を感じるようになった。外資系金融機関、日系金融機関で英語力必要のポジションで幾らかそうしたポジションの求人で引き合いがあり、採用権限者や社内カウンターパートが香港/シンガポール等だとNUSのCS修士のブランドも比較的通りが良く、助かった面もあった。

そうした中から職を得て、来年から新たな職場で働く事になったのであった。

四十路のキャリアシフトにおける反省点

以上、日本帰国、転職、営業キャリアへの違和感、仕切り直しの転職活動、来年以降の仕事決定、それに並行して育児、と言う過程を忙しなくバタバタと行ううちに年末を迎える事になった。中年には堪える忙しなさであった。その過程で、中年のキャリアシフトを行う上で反省点も色々あったなと思うので以下に簡単に書いておきたい。

キャリアチェンジに際する情報収集をもっと早期から十二分に行うべきであった

一番大きい反省点はこちら。キャリアチェンジに際する情報収集不足が全体として目立ち、キャリアシフトがばたついてしまった面は否めない。限られた時間の中で職探しをする必要があり仕方ない面はあったものの、シンガポールから日本に帰国する際に、本来であれば日本のジョブマーケット状況等もっとじっくりとよく調べるべきであった。

例えばシンガポールにいた頃は主に東京時代から付き合いのあった金融メインのヘッドハンター等がメインで仕事を探していたのだが、これは修士理転してキャリアチェンジをしていくと言う際には必ずしも適切ではなかった。東京に戻りIT/テックのヘッドハンターも含めて広くコンタクトを取るようになってから、金融データサイエンス的な自身に合う案件も幅広に多く出て来やすくなった。従前のアナリストや運用者等のフロント関連職をメインでやっているヘッドハンターが必ずしも金融データサイエンス系の職種の案件を多く持っているかと言うとそうではない、職種が異なると全く別のコミュニティ形成が成されている点への理解が足りなかったと反省している。

加えて、外資系企業東京オフィスがかなりの程度営業オフィス化している事をもっとよく知っておくべきであった。東京での機会が主に営業のみの外資系企業は昨今結構多い、そうした職場では東京にフルラインで職種機会がない、と言う事についてもう少し理解が必要だったように感じている。

キャリアゴールをより詳細明瞭に描いておくべきだった

次はここである。以前のプライベートバンク、今年のプロダクトスペシャリストもそうであったが、「職種シフトを行うために営業/セールス的な仕事を受け入れる」と言う面があった。つまりはプライベートバンクの際は日株職人から国際マルチアセットに視野を広げるため、今年の修士&理転完了後にはより金融&データサイエンスと言う場所に近づくために営業的な世界に足を踏み入れる事になった。

この数年の経験自体は非常に新鮮で良い経験になったし、ナチュボン界で社会性に欠けがちだったが外に出て営業しても案外ご飯食べていけるのか、と言うのは一定の自信にはなった面はある。しかし根っこの所で自身の性格適性的に営業はキャリアの着地点ではない事をプライベートバンクで勤務した辺りでより自覚しておくべきであった。

また、数学選手権/アルゴリズム選手権で数理能力一本、コード書き一本でキレキレPhdや理系上澄み層と伍してやって行く気まではないにせよ、金融のドメイン知識やプレゼン他ビジネス系スキルとの合わせ技でコードを書いたりデータを黙々と分析する類の作業は自分の持ち味を発揮する際には不可欠な部分なのだ、と言う所をより自覚しておくべきであった。

あれか、これかの二者択一に囚われず、適性に合う仕事で妥協すべきではなかった

加えてこの点である。これは以前にも書いたように思うが、自身のような文系からの理転越境者が仕事を探す中で難しかったのが、「ビジネス/ファイナンスとデータサイエンスのハイブリッドの仕事で、すぽっとはまる先を探すのが難しい」と言う点であった。

  • ファイナンス側:昔からの株式アナリスト、ファンドマネジャー等の運用調査フロント、又は投資ストラテジスト、プロダクトスペシャリスト等のややセールス寄りのファイナンス系の仕事

  • データサイエンス/テクノロジー側:機械学習エンジニア、データサイエンティスト等、理系修士がmust、得てしてPhd preferredの「理系力、アルゴリズム選手権一本勝負」的な仕事。又は純然たるITデベロッパ、ソフトウェア開発者等の「エンジニア一本勝負」的な仕事。

上記のような分かりやすい求人は比較的多くあるし、ヘッドハンターも自身の履歴書を見て過去のキャリアに注目する人は前者を、最近のNUS修士等の変化に注目する場合は後者を紹介して来る人が多かった。

しかし、自身の場合、前者だとせっかくのデータサイエンス側のスキルが殆ど活かせずプログラミングスキル周りがオーバースペック、後者のアルゴリズム選手権の場合過去20年の金融スキルや経験が活かされずキレキレ上澄み理系達や歴戦エンジニア達の中でやって行くにはアンダースペック、と言う事になる場合が多かった。言わば、100m走だと自分はウサインボルトではないし、フルマラソンで2時間何分で走れるような選手でもない。10種競技や冬季オリンピックのバイアスロンの類を自身は志向している訳だが得てして中途半端になりがちで、そうした求人が中々ない事で長らく悩む事になった。

結果、限られた時間や手持ちカードで転職して違和感を覚える、と言う結果になった。日株職人からマルチアセット移行の際のプライベートバンクはまあ他に手段がなかったかなとも思う一方で、中年の理転&大学院卒業→日本帰国後の仕事としては、上述の情報収集に加えて、自身の性格適性をより詰めて、時間をかけてでもじっくりと自分の持ち味が最も出る先、ニッチな複合分野の10種競技やバイアスロン的な求人を探して妥協のない転職をしても良かったようにも感じている。マイナー競技ではあるが探せば案外自分にあった競技/職種の求人と言うのはある。どれか1つの分野で突き抜けている訳ではない、悪く言えば中途半端、よく言えばオールラウンダーだからこそ活躍の可能性のある仕事と言うのも実際ある訳で、この点より留意すれば短期転職でばたつく事もなかったようには感じている。

文系から理転、エンジニア/データサイエンス方面に転向されたいと考えられているかたの場合は、ビジネス知識経験とテクノロジースキル経験の必要度合いの比率を考え、元々のビジネス知識経験を活かしつつ、無理のない、しかし技術面で学びや成長のある丁度良い頃合いの技術要求度の求人を根気強く探すようにする事をお勧めする。

幾ら大学に入り直して理転しても、理系本職の数理能力キレキレの理系達、困難な開発案件等潜り抜けてきた歴戦のエンジニア達と全く同じ土俵で、元々文系で中年からキャリア移行を試みる側が勝負するのは分が悪い。かと言ってコーディングや技術面の知識経験がなくてもやれる仕事に寄り過ぎると技術面の成長が止まってしまい理転した意義を感じづらい面はあるように思う。

上述の通りでこうした「10種競技やバイアスロン的な求人」は大量にある訳ではないが、探せばニッチな分野として存在はしている。この辺の頃合いをうまくつかんでいるヘッドハンターをあちこち応募しながら根気強く見つけて関係を作るのも重要かも知れない。

反省点のまとめ

今までつらつらと反省点をのべた。情報収集、キャリアゴールや適性の明確化、妥協せず自分が最も活躍できる競技/職種を探す。どれも重要な事かなと振り返ってみると感じている。

その一方で、キャリアの移行期にはそれまでとは別のジョブマーケット、今まで馴染みのない職種に突入して行く、中年の危機をこなすに際しては自分自身のやりたい事や心地よいと思うライフスタイルや環境等も変化して行く過渡期を経験するのもまた確かである。従って一発でぴたっとしっくり来る場所に到着するのも中々に難しい、過渡期における一定の試行錯誤はある程度仕方ないのかなと思う面も感じてはいる。そうした過程も含めて中年の危機、中年の自分探しなのであり、学びなのかなとは感じている。

こうした試行錯誤が可能な環境を、経済面や進路等で完全に詰まないように留意しながら確立する。コツとしてはいきなり全部捨ててインドにヨガ修行に行ったり全くノウハウもないのに飲食業など始めたりと言った極端な行動に出過ぎずに、外部環境/時代の変化、自身のライフステージや心境の変化に取り組む、時間をかけてじっくりと過渡期をこなしていく、と言う辺りなのかなと個人的には感じている。

まとめと今後の展望

年齢面もあるし、転職はもう可能な限りこれで最後にしたいものである(最後に出来得る会社/仕事、と言うのは今回かなり意識した)。この数年の過渡期もそろそろ終わりかなと感じている。

転職すれば全てバラ色になる訳では必ずしもない事、期待値を高く持ち過ぎるのは往々にして良くない事はもうこの歳、この転職回数になると骨身に染みている。どこで働いてもまあ色々あるものである。

それでも、Pythonを独学で始めてから継続し中年の大学院受験、理転等する事約8年、ようやっと金融の仕事をして来た過去を生かす事が出来、かつPython/SQLが必須で機械学習やクラウドも適度に活用するので詳しければ尚よしと言った、元々「こうした仕事に着地したい」と考えていた職務に到着する事になりそうである。これもまあ色々整備されていないとか諸々あるだろうが、営業でキャリアが仕上がるよりは上記分野での泥臭さと取り組んで壮年になる方が自分らしいと言う判断である。

中年も佳境に至るに連れて感じるのは、「今日1日の予定表、活動内容が自身の性格適性に合っていて単純に悪くないなと思えるか」と言う事の重要性である。キャリアアップだ出世だ言う歳でもない。しかし人生100年時代における職業人ライフはまだまだ続く。

そうした中で、未来の成功のため等の幸せの先送りではなく、「今やっている仕事、1日の作業内容、人間関係、ライフスタイル、給与等、まーそりゃ会社員だし育児も忙しいし色々あるけども、自分には比較的合っているしトータルにそう悪くない」と感じられる所に着地する事。自身の手持ちカードなりの日々の充実感、中年なりのペースで学びや成長がある事。そうした中でなんなんと育児などして子供が健やかに育って行く事。そうした2023年以降を心より願いながら、2022年の暮れを過ごす今日この頃である。

特に情報価値がある訳でもない散文を最後までお読み頂き、ありがとうございました。皆様におかれましても良いお年をお迎えください。

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