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僕らのラフテルは深夜ラジオ1

本当は今日は僕の心の中に若林正恭とジョーカー、佐久間宜行を飼っている話を書こうと思ったんですけれど、大事件が起きたので今日はやっぱりテレビの話をしようと思います。

まず、テラスハウスの話からですね。

僕はテラスハウス絶賛視聴中でしたし、大好きなテレビ番組の1つなんですけれども(軽井沢編からしか見てなからにわかとか言われそうですけど)、その存続とか責任問題とか色々な問題が発生してしまいましたね。僕はリアリティショーとしてのテラスハウスというより単純なエンターテイメントとして楽しんでいたので、こんなにも物語を許容できない人がいるのかということに驚いているんですけれど。今の人たちが『トゥルーマンショー』とか見たらどんな感想を抱くんでしょうか?

とは言っても僕はテラスハウスは楽しみな番組の1つでしたから、毎週聞いてるラジオとかと同じ感覚なんですけれど、これのみを楽しみに生きている人は一体どういう生活を送っているんでしょうか。

僕の意見なんですけれど、1つのテレビ番組によくもまあ時間と思考を割くことができるなと思いました。そもそも、テレビ番組の思考って、その番組の尺の間に考えたり、感じたりすることで、番組が終わったら別の思考に移っているというのが僕の考えなんですけれど。それを、わざわざ番組外にSNSで検索してコメントするのって退屈じゃないですか?というか、時間の無駄のように感じます。テレビ番組は番組内の話で、リアルではないという事で終わらせられないのでしょうか。

映画やドラマで例えると分かりやすいと思います。役者は、決められた役で演技をして、それはフィクションの世界で、実際演じている役者とは違う人物で役者と役は切り離されて考えることに違和感はないですよね?テレビ番組ってそれと同じことなんですよ。テレビはよりフィクションをリアルに見せているだけで、フィクションであるという考えがいつから無くなってしまったんでしょうか?それに出演しているタレントだって、フィクションをより面白くするための役者で、しかもアドリブで、自分の人生をフリとオチで使って、物語を面白くするための演出をしているだけの役者だと思っています。それが、テラスハウスだとしてもテレビ番組である以上は例外ではないと僕は思っています。

ここまで書いておいてなんですけれど、人の悪口を書いているみたいになりました。自分ではそんなつもりはないんですけれど、すいません。たぶん、見る人はほとんどいないと思いますけれど、謝罪しようと思います。

ここまでは前振りです。今からはテレビの話ですね。僕は今まで、テレビとかメディアの授業を受けてきて、それなりに勉強してきたつもりなんですけれど、その上でテレビの時代はまだ終わっていないと考えていました。それで、最近色々な事を考えて、本を読んで僕はテレビの時代は終わってしまったのかもしれないと思い始めてきました。それが、今回の事件で本当に終わってしまったんだなと少し泣いてしまいますね。こんなにも、テレビをフィクションと許容できない人が存在するのならば、テレビの時代は終わったと思うしかないですね。

これもYouTubeの時に書きましたが、フィクションよりリアルが求められる時代になっていまったからなんだとは思いますけれど、僕なんかは、むしろ現実に何度絶望したことか分からないくらいですから、断然フィクションの世界で夢を見るほうが幸せなんですけれど。僕がフィクションにエンターテイメントに固執するのは現実を見たくないというのがあるのかもしれないですけれど、というか多分僕は現実が嫌いだから、見たくないから、逃げたいから僕はフィクションの中に身を置きたいのだと思います。テレビやエンターテイメントが現実を、嫌でも見なくちゃならなくなった時に人は正論や多様性で自分を武装するんだと思います。これは、因果関係が逆ですかね。人が正論や多様性で武装しはじめて、テレビやエンタメはリアルを語りだしたんだと僕は思います。

それはテレビやエンタメはいつでも人に寄り添ってきたからなんだと思います。

今日はこれくらいで。

最近アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノにはまっているんです。

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