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能力主義、あるいは過度な成長の目的化からの脱却

私は近々三十路になるのですが、20代においては「能力主義からの脱却」これが自分にとって非常に重要なテーマだったと振り返って思います。

能力主義とは何か、もしかしたらこの言葉には学術的な定義などあるかもしれないですが、この記事では「能力で人の優劣を判断する価値観」という定義で話します。

さて、おそらく上記の定義を前提として「あなたはこの価値観を持っていますか?」と聞かれて「はい」と答える人はあまりいないでしょう。
ですが現代社会においてこの価値観はかなり多くの人に内面化されていると感じています。例えば SNS などで分かりやすいのは年収を上げることだったり、仕事において価値を出していること = "能力"があることを至上の価値観にしている人などはよく見かけます。

特に私はソフトウェアエンジニアで、いわゆる技術職なのですが、同じ職種の人でこの価値観に囚われている(ように私からは見える)人はよくいるなと感じます。それはエンジニアの生存戦略などのフレーズが度々使われることなどにも表れており、生き残るには常に技術を研鑽し続けなければならないという強迫観念が存在していそうです。
私自身も長らくこの価値観に基づき自分を追い込んでしまい、おそらくそれが原因で神経症なども患ってしまいました。

ただ、ここ数年で私は大分この価値観から解放されて生きられるようになったと感じています。今でも自分の"能力"を評価されて「ふふん」と得意気になることはありますが、労働市場からの評価や他人の目を気にせず、純粋に自分が楽しいと思うことに取り組めるようになりました。(そもそも100%脱せるものではないし、ある程度自分の相対的に秀でている能力に得意気になるのは自然な気持ちなので、そこに関して過度に自己嫌悪する必要もないかなと)

価値観の変容に関する話なので「こうすれば脱せます!」みたいな便利メソッドは存在しないと思うのですが、一例として私が脱するきっかけになった出来事などを語っていこうと思います。

能力主義のいいところ悪いところ

自分語りに入る前に能力主義のいいところと悪いところ、それぞれについて考えてみようと思います。

いいところは「労働市場において評価されやすくなる」というのが挙げられます。
この価値観に基づいて生きていると、自分の "価値" を上げるには自分の "能力" を上げる必要があります。なので、仕事中はもちろんそれ以外の可処分時間も能力の研鑽に費やすエネルギーが湧きやすいです。必ずしもその結果に結びつくとは限りませんが、結果として年収は上がりやすい傾向にあるでしょう。なので物質的な生活水準を短期で上げたい場合にはいい面もあるのかもしれません。

一方で悪いところもいくつかあり、社会、組織、個人など様々なレイヤーで表出しています。
例えば、社会レイヤーではこの能力主義が蔓延することによって「働かざるもの食うべからず」の価値観が強くなり、働けない者や採用市場において価値のある仕事につけない人たちの尊厳が失われてしまう、また若干飛躍しているかもしれないですが優生思想にも繋がる可能性があります。

組織レイヤーでも、私も過去の振る舞いで思い当たることが多々あり恥ずかしくはありますが、この価値観で生きていると自己中心的というか、自分の成長機会を最優先に考えてしまい、組織全体において最適ではない振る舞いをすることがあります。また、選民的と言いますか、能力がない(と自分が思っている)人たちへの態度が冷たくなり不和を産むこともあります。
ただ、これは個々人の能力主義の発想によるところだけではなく、企業が「資本主義の競争の中で生きざるを得ない = 生産性を最重要視せざるを得ない環境」にあるため、そういった価値観が正当化されやすいという結果に繋がっている側面もあると思います。そのため、安易に個人の問題に帰結することはできません。

そして最後にミクロな個人の話で、これが本記事の主題なのですが、"能力"を磨くことに夢中になるあまり自分の幸福には結びつかない活動に多くの時間を割いてしまうことが挙げられます。
能力主義の価値観においては「自分の能力を上げること ≒ 労働市場において評価されやすい能力を磨くこと」に主に時間が使われ、それによって自分の幸福のための時間を犠牲にしてしまうことがあります。
何が幸福かは人によって千差万別ではあり、「労働市場で評価されること = 自分の好きなこと」である人はいいかもしれないですが、「エンジニアはずっと勉強する必要があるのか」のようなトピックが繰り返し話題になることを鑑みるに、「本当はそこまで頑張りたくないのに頑張らざるを得ない(プレッシャーを感じている)」という状態にある人は少なくないのではないかと思います。

これはニワトリ卵的な話ですが、能力主義から頑張るプレッシャーが湧く、それで成長した結果、得られた地位を守るのであったり、その成長が重要なものであると思い込みたいがために「その"能力"が人の優劣に関わるのである」という思想が強化されるループ構造にあるのかもしれません。

以上、どんないいところや悪いところがありそうかを考えてみたところで次に私の能力主義の価値観がどのように変わっていったかをご紹介します。

私の話

結論から言うと以下の4点が大きかったと思います。

  • 支えたい他者と関係を築く

  • "能力"を失って能力主義の価値観に疑問を抱くようになった

  • 多様な価値観の人と出会う

  • 人文知を学ぶ

支えたい他者と関係を築く

今私は彼女と猫と暮らしています。この二人と日々を楽しく過ごすことが私の人生の優先度ダントツ No.1 です。もしかしたら短期的に仕事を優先する時が来たりもするかもしれないですが、長期的にはこの暮らしを守ること以上に大切なことはありません。

ちょっと恥ずかしい過去を話すのですが、私は恋愛経験はほぼなく社会人デビューし、正直なところ恋愛に関しては拗らせていました。
一応頑張ってみようとしたことは以前も何度かありますが、いかんせん上手く行かず、結果としてプライベートがうまくいかないことへの代償行為として仕事、ないし技術の研鑽を頑張っていたように思います。

当時は「今は仕事に集中したいから恋愛に割く余裕がない」だったり「最強クラスのエンジニアになって見返してやる!」みたいなことを考えていました。うーん書いててむず痒くなってきた。

言うまでもないですが、これは課題のすり替えです。本当は恋愛に向き合うことでしか解消できない自分の心の穴を「技術の研鑽で時間が足りない」という別の課題ですり替えていました。

ただ、このネガティブなエネルギーというのは凄まじいもので、私は寝る時間以外全てを仕事と技術の勉強・実践に捧げていたと思います。本当はスプラトゥーンを2000時間とかやっていたので全てというのは若干嘘ですが。
努力の甲斐もあってかフロントエンドという領域のスペシャリストとして周囲からそれなりに信頼されるようにもなりました。ただ、そうなったらなったで自分へのハードルは更に上がり、この常に学んでいなければ!という緊張は中々解けませんでした。

この緊張状態が原因かは断定できませんが、私はしばらくして様々な精神的な病気を患いました。まずストレスを感じると体のある部分(男性のみに二つあるアレ)が痛むという奇特な病気を患いましたし、不安障害、体のちょっとした異変に対して過度に敏感になり延々と検索してしまったり病院にすぐ行くなどして酷い時は週に2-3回病院に行っており生活に支障が出ていました。

極め付けはコロナ感染後にしばらく動けなくなったことです。詳しい顛末は下記にまとめたのですが、これは実際に感染症の後遺症な側面もあったとは思いますが、不安から自分を痛めつけ続けていた側面も多分にあったと振り返って思います。

という感じで常に緊張状態で働き続けた私は文字通り神経をすり減らしてしまっていたのかもしれません。

そんな緊張状態からゆっくり抜け出させたのは間違いなく彼女の存在が大きかったです。

まず純粋に頼れる他者がいるということ、彼女も彼女の人生があるので過度な依存はよろしくないですが、普段の生活を一緒に過ごしてくれる人がいるだけでとても心が救われました。

また、大分脇道外れましたが、今回の記事の主題である能力主義に絡めて話すと、彼女との出会いは私の"能力"とは全く関係ないところで出会いました。(ちなみに Pairs で会いました。エウレカの人ありがとう。)

そして彼女の職種は私が生業としているプログラミングとはあまり関係ないもので、私の能力がすごいかどうかは彼女にとって判断もできないし至極どうでもいいものでした。
先程「見返してやる!」みたいな考えがいかに的外れなものであったかが今なら分かります。
自分が半ばアイデンティティとまで捉えている技術が他者からはいい意味でどうでもいいということ、例えばですが、仮にご自身の家族が何らかの理由で生業としている仕事ができなくなっても、その家族の人としての"価値"(という言葉も不適切な気はしますが)はご自身にとって何も変わらないのではないでしょうか?

人によっては至極当たり前に感じるかもしれませんが、私にとってこの視点を得られたのは非常に大きかったように思います。

そして、この章の冒頭にも書きましたが人生における優先順位がガラッと変わりました。彼女と一緒に平穏に末長く暮らすことが今の私のダントツ No.1 で大切なことです。なので能力主義の上で重要だった仕事へのコミットだったり技術への研鑽は、それが実現できた上で、あるいはその手段としてすること、という位置づけへと変わりました。

本当に、我ながら影響を受けすぎだなとは思いますが、分かりやすいくらい人生における重要なものが変わり、それによって能力主義の価値観は自然と手放せるようになったと思います。

"能力"を失った体験

先ほどチラッと触れましたが、私は2020年の秋頃に新型コロナに感染しまして、そこから10ヶ月ほど働けない時期がありました。当時はちょっと歩くだけでもダウンしてしまいますし、デスクワークも数十分しただけで脳がほんわかしてくる状態で仕事らしい仕事ができない日々が続きました。

ここで「仕事で価値を出すこと = 存在意義」かのように捉えていた私は精神的にかなり追い込まれました。振り返ると一年も経たず復帰できたのですが、最初の数ヶ月は回復の兆しが全く見えず、「いつ治るんだろう」と毎日考え込む日々でした。
そうなると「ずっとこのままだったら…」という方向に思考が向いてしまうのですが、それは金銭面での不安にも繋がりますし、そしてそれ以上に「仕事ができない = 社会に価値を提供できていない = 自分は生きている価値がない?」というアイデンティティへの疑問にも繋がりました。

これは私の感想に過ぎませんが、結果このように自分の精神を痛めつけるような思考をぐるぐるしてしまったことにより、病に伏す時間を長くしてしまったように思います。

この経験を通して「いつ自分が働けなくなるか分からない」という可能性に対して強いリアリティを持つようになりました。また、どちらにせよ老化というのは避けられない現象なので、10〜20年後には今と同じようなパフォーマンスが出せなくなっているのは間違い無いでしょう。

とした時に、アイデンティティを仕事で価値を発揮することだけに置く生き方は非常に危険なのではないかと思いました。
またそのような能力主義が蔓延し、資本市場において価値を発揮できない人を半ば切り捨てるかのような発想が正当化されやすい社会より、相互に助け合うことや「人は生きているだけでお互いに影響しあっている」という考え方が言葉だけでなく心からそう思えるような社会になっている方が良くない?と思うようになりました。

多様な価値観の人と出会う

また、多様な価値観の人と出会う、特にこの資本主義社会の中で「成長し続けれなければならない!」というプレッシャーを感じていない人と話したり何かアクティビティを一緒にしたりすると自分がマッチョなカルチャーに染まっている場合に相対化して見やすくなるのかなと思います。

ここ1-2年でとある親族の人と一緒に過ごす機会が何度かありましたが、彼は家族を養える必要な分だけ仕事を頑張り、それ以外の時間はただただ人生を面白おかしく生きていければいいという人でした。
彼と一緒に過ごしていると「仕事に全力で生きるのも一つの選択肢でしかなく、そうしないと自分は価値がない、なんてことはない」ということが自然と考えられます。言葉にすると当たり前なんですけどね。

上記のように家族と過ごすのもそうですが、旅行などを通して色んな生き方に触れるのが大事なのかなとしみじみ感じます。

人文知を学ぶ

私は去年まで短中期の"実用性"のあるビジネス本だったり技術本だったりしか読んでこなかったのですが、コテンラジオという Podcast を聴き始めたのをきっかけにいわゆる人文系の本もよく読むようになりました。

詳しい人文知の魅力は下記に書いたのですが、メタ認知ができるようになるというのが大きいと感じています。先ほど多様な価値観の人と出会うことによって自分の価値観を相対化して見られる、ということを話したと思いますが、歴史や哲学など様々な人が紡いできた知識を学ぶことによって同じことが実現できます。

私がこの記事で書いているようなことも、私個人のオリジナルの考えというよりは、様々な人文系のコンテンツから学んだものを過去の自分の経験に照らし合わせて書いているに過ぎません。

自分が何かしらで苦しんでいる時に助けになってくれるような考え方だったり、過去の人類の価値観などを知ると自分の囚われとなっているものから解放させてくれるかもしれません。

"現実"の話

以上、自分が能力主義から脱却してきたきっかけを語ってきましたが、社会としてこういった価値観を持ちやすい・半ば持たざるを得ない"現実"も存在します。ちょっとこれらについても触れていこうと思います。

とは言っても現実お金は必要だよね?

あまりこういう能力主義に囚われないようにしよう!みたいなことを言っていると「とは言え現実お金は必要で、そのために採用市場で評価される行動を取るために頑張らなければいけないよね?」というお声も聞こえてきそうです。そしてそれはその通りだと思います。
正直なところ、私がこの記事で語っているようなことを純粋に考えられているのは「私がそれなりの収入を得ているから」という背景はあると思います。

まず、年収が上昇することはある程度の段階までは幸福度とも比例しやすいという話があります。よく言われるのが「幸福度は年収7〜800万円ほどで頭打ちになる」という研究です。

この研究結果からは以下の2点が読み取れると思います。

  • 年収800万円までは幸福度と年収が比例しやすい

  • しかしそれ以上はお金が増えたところで変わらない(むしろお金を目的にし過ぎると幸福を毀損する可能性すらある)

私もお金がなければ先ほど話したコロナの後遺症の時に無理して働いてより長期化していたかもしれないし、今も自分のみならず家族の病気などで突発的に支出が増えることはあり、お金があるといざという時に取れる選択肢は増え、幸福を増やすというよりは減るのを防ぐのにとても重要だと感じています。そこまでの突発的な支出でなくとも、お金は日常に存在する数々の不を取り除くにもとても活躍してくれるものです。

ただ一方で年収800万円まで上げることを目的にした時に能力主義の価値観である必要はない、とも思います。純粋に採用市場で何が求められているか、自分が得意なこと・好きで続けやすいことを探求・分析して実行していくのが必要なことで、その時に過度に仕事にアイデンティティーを持ち過ぎたり、お金を目的化し過ぎてしまうことを防ぐために今の自分の考えを都度メタ認知するのが大事なのかなと思います。

ただ、「年収800万まで上げる」ことを軽々しく語っていますが、これは「日本において年収が800万円以上の人は全年齢で10%のみ」ということを考えると、そこに到達するには様々な環境的なの要素も絡んできます。

このような背景も含め、若干余談ですが上記の研究を打ち砕きたいというか、そもそも年収と幸福度の比例がほとんどなくなるような社会にしたいなとも思います。

社会にとって貢献した人を報いるのも大事ですよね

例えば人類共通で優先度の高い(であろう)課題として環境問題だったり少子化問題であったりします。
こういった課題の解決に貢献している人が報われないと人々のモチベーションを削ぐ結果になりえ、課題が解決されない社会になる恐れがあります。

この記事では度々資本主義が人々の価値観にもたらした病理について書きましたが、資本主義が我々の社会に対して与えたプラスの側面もしっかり見なければなりません。資本主義においては市場における競争原理が働くため生産性が非常に高まります。これによって様々な分野で技術革新が起き、我々の生活は100年前、なんなら数十年前より遥かに便利になりました。これは20世紀において社会主義を標榜していた国々との発展具合と比較することで見て取れると思います。

そして、このプラスの側面が将来的な人類の課題を解くことに活躍することももちろんあるでしょう。なので「頑張ったら報われる」と「人は生きているだけで価値がある、という価値観」が両立された状態にする必要がありそうです。つまるところ、これは「人のモチベーションを削がずに、富の再分配をすること」、そしてそれに関して不満や後ろめたさが発生しない状態に繋がるのかなと思います。

正直私はそのような社会のビジョンをまだまだ描けていないのですが、一つ思うのが報酬は必ずしもお金である必要はないのではということです。
例えば、アメリカでは寄付の額やGDPに対する比率が大きく、これは寄付をすることによる精神的な報酬が大きいことが要因にありそうです。(アメリカの方が超格差社会なので手放しにここだけを見てアメリカがいい!とも言えませんが)

このように共同体の中で貢献している実感などを報酬として感じられるようにするというのも一つ打ち手としてありそうです。正直言っていることが若干搾取するブラック企業感もありますが、一方で「お金そんな過剰に稼いでも個人の幸福にとっても意味がないよね?」というのも先ほど引用した研究結果が示すところであり、富の分配がそのような形で実現されていくのは一つ有効な観点でしょう。

ただ闇雲に分配してもいわゆるコモンズの悲劇という事象が起きる可能性があります。

コモンズの悲劇とは: 多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87

これを防ぐ方法も研究されていますが、このように様々な人間や共同体の特性などを研究した上でこれからの社会を描いていくのが重要になってくるでしょう。

おわりに

以上私が能力主義の価値観から脱していったきっかけを語ってきました。
過去の私は、能力を上げることに固執するあまり、不幸を自ら招いてしまっていました、それは今も尾をひきずっている部分も少なからずあります。ですが様々な人や人文知との出会いを通して能力主義から大分自分を切り離せるようになり、以前より前向きに生きられているなと実感しています。

ただ、ここまで個人の内面の話が多くなりましたが、一方で現在の資本主義における自由市場の競争が人の価値観に与える影響も大きく、ここを変えていかなければ人々が採用市場を向いて多くの時間を使わないと生きていけないという状況がより強固になっていく可能性も否めません。
余談ですが私が最近転職したのもこの辺りの社会システムを変えるところに挑戦してみたいなと思ったのが理由として大きいです。

もしこれを読んでいる方で能力主義的な発想により自分を追い詰めてしまっている人がいれば、この記事がそれに対して前向きな変容を促すきっかけになればこの上なく幸いです。

関連リソース

おまけとして今回の記事と関連して自分がとても学びになったと感じたリソースたちを紹介していこうと思います。

コテンラジオ

歴史を学べるPodcastですが、特に障害の歴史が本記事の内容に深く関わってきています。

私有財産、富の傾斜配分という概念が表出してきた結果 "生産性" によって差別が行われるようになった構造、進化論から考える、現在の社会における生産性で人の価値を考える優生学のような発想がいかに科学的に間違っているか、などを学ぶことができます。

井上慎平さん

井上慎平さんという NewsPicks Publishing で編集長を務められている方がいるのですが、弱さをテーマに発信されています。
井上さんは鬱病になったことをきっかけに能力主義を疑い始め、能力に関する深い考察をされています。

成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋

この記事を書きたくなったのも実はこの本を読んでいて触発されたからです。タイトル通り成長疲労という過度な成長を目的化する現代の病理に対する打ち手・考え方の数々をご紹介されています。

またこちらの著者の加藤洋平さんは他にも成人発達理論にまつわる良書を出されているので併せておすすめです。(ちなみに上記の本は成人発達理論が半ば成長を強制するもの、「発達 = いいこと」として扱われていることに対するアンチテーゼとして書かれた本です。)

「普通がいい」という病

著者の方は精神科のお医者さんで、タイトル通り普通でありたいと願う人が、そもそも普通とは何なのか、その曖昧な言葉についた手垢を解きほぐしてくれ、普通と思っている価値観を相対化してみるきっかけになってくれるような本です。

冒険の書

現代において広く根付いている数々の価値観をリフレームして捉えている書籍で、その中の一つにメリトクラシー(≒能力主義)について論じている部分があります。全体を通してハッとするような問いが随所にあります。


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