出会い「いたー!」
その年の年末年始の旅行はシンガポール&バリ島で12月中はシンガポールでの買い物やクリスマスを過ごし、12月25日にバリへ入りました。
バリではもう海沿いの滞在ではなく時々お買い物へ行くのみにしてお気に入りのウブドへ直行していました。
(海沿いがヌサドゥア、ジンバラン、サヌール、クタ、セミニャック、チャングーなどですが、ウブドは山沿いで緑が多くとても静かで落ち着く地域です)
そしてNew Yearはバリ島/ウブドで迎え現地の友達と楽しいパーティーの翌日もバリはお休みではなく日常が始まっていました)
バリ島はヒンドゥー教でウク暦という独自の暦で動いていて他に大切なヒンドゥー教の祭事があるので年末年始は普通の日なのでした。
友達のKちゃんは彼氏と朝からデートへ出かけたので私はゆっくり起きてマンディ(シャワー)の後友達がいるレストランへランチに徒歩で出かけました。
その時定宿としていたのは数年前に出来たばかりの2F建てで4室のみのコテージ。
ハノマン通りのべべブンギル(クリスピーダックとココナッツリームパイのおいしいお店)の向かいの道を入ったところにあったものでした。
このコテージは大通り沿いに中華料理店がありその横の道を入った奥にありその入口の中華料理がおいしかったので以前から利用していました。
その中華料理屋さんでご飯を食べていたとき店の裏が田んぼになっていてその奥に建物がありあれは何かとスタッフに尋ねたら、
「出来たばかりでのコテージだよ」と教えてもらい食事の後見せてもらいすぐ気に入り移ったのでした。
それからはウブドでの定宿としていたのでした。
バリにはガイドブックに載っていない素敵な宿がたくさんあり、その頃はバリ到着日の宿のみ日本から予約しておきそれ以外は自分達の目で見て直接値段交渉をして宿を決めていたのでした。
今はWebで情報がたくさん確認できますが、写真ではキレイだったのにあれー?という事もあります。
そしてツアー旅行だとホテルが決められているものもあるかと思います。
そんな中でも1泊でも良いので自分の好きな場所で自分の目でみて感じた宿で過ごすのって本当贅沢でバリをもっと好きになる手段でもあるので是非試して欲しいと思います。
そしてそんなところではバリの不思議体験をすることもあると思います。
ここのコテージは出来たばかりというのもあり数人のスタッフしかおらず、とても気さくでみんなとすぐに仲良くなれたのでした。
私達が初めての日本人のお客様でスタッフへ毎日日本語を教えて、その代わりにインドネシア語を習うという日常でした。
ところがここのコテージがだんだんと人気になり予約がとりにくくなっていくのでした。
居心地が本当によかったなー・・・
(今もこのコテージはありプールが付いたりした大きなコテージになっています)
この当時スタッフには今では超有名なKアンの亡くなったご主人が勤めていてその後ご結婚されKアンをオープンされてからは友達がバリへやってくる時はKアンに宿をとるなどとてもお世話になっていました。
そして日本人の奥様にも大変お世話になったのでした。
ご主人が亡くなったという知らせを聞いた時はホントにびっくりしたし、とてもとても悲しかったです。
ユーモアがあり優しくてとても素敵な人でした。
そういう素敵な人は早く神様の元へ行かれてしまうのだと思いました。。。。本当に残念です。。。
それから奥様もご苦労されたと思いますが、今でもバリでビジネスされていらっしゃるようで本当に凄いなと思います。
そんな宿からハノマン通りを直進して友達の店までは歩いて5分くらいでした。
(普通ならバイクでいくのですが、私は免許もありましたが、あまり運転に自信もなくバリの運転はとにかく荒く危険なので自分での運転は絶対にしないと決めていたのでした)
途中お菓子やコピ(コーヒー)など良く購入するワルン(キヨスク)でいつものように「Mau pergi kemana?」/「どこいくのー」とイブ(店のお母さん)に声をかけられつつ友達のレストランへ。。。。
このようにバリ島の皆さんは超フレンドリーで目が合うと知らない人でも必ず誰でもニコリと笑いかけてくれたり、怖そうなおじさんでもにっこり満面の笑みをくれるのでした。
そして友達になり道で会うと必ず「Mau pergi kemana?」/「どこいくのー」は定番ので、これまた回答も
「Jalang-Jalang」/「散歩」(Jalangは道という意味ですが、それが2つかさなり散歩という意味になるという可愛いインドネシア語です)というお決まりのやり取りなのでした。
友達いるレストランは2F建てで2Fからは道を行きかう人を見られるのでとてものんびりできるのでした。
ここで働いている友達というのも実はちょっとイイ感じになりそうな人感じの人だったのでした。
1Fはローカルがご飯を食べているようなレストランでした。
そこでレストランのスタッフと話ながらランチを取っていた時階段を上がってくる音がしました。
その階段を上がって来たのが今の旦那様です。
その時歩いてくる姿をみたとき「いたー!!この人だ」と・・・・(まだ何も話もしていません。。。。)
というか私はそれまでもその後も誰かを探しているつもりは全くなかったのですが、本当に「いたーこの人だ」と思ったのでした。(その瞬間にいい感じになりそうな友達の事は私の中でもう過去の人になってしまいました)
(結婚して随分だってからこの「いたー」の意味が分かる時が来るのですが・・・それはまた別の機会に。。。)
でもよーく見ると手は絵の具で汚れていてサンダルははいておらず素足。
そして長く伸ばした髪の毛をルーズにひとつに束ねていたのでした。
その束ねた髪はきっちりではなく真ん中分けで良い言い方だとルーズ感をだしてエアリーな感じでした。
決して清潔感がある好青年とは真逆でした。
実は以前までは少年隊の東山さんのような短髪で清潔感があり、ある意味侍的な人がタイプだったのですが、旦那様に会う1年前に年末をバリで迎えたときバリ人の友達がタバナンにある自分の村に案内してくれたとき長髪の素敵な大学生の青年と出会ったのでした。(中学の時の彼氏に顔が似ていてとてもかっこよかったのでした)
その後少しの間その青年とは文通などしていました。
その青年はバリの大学4年生でした。
文通が何回か続いた時、お金を援助して欲しいという内容の手紙になったので残念ですがそれで終わりにしました。(手紙の返事はしませんでした)
このお金援助については当時バリではあるあるでいろいろと問題にもなっていました。
当時はまだインターネットや携帯の普及はしてなくて日本という国は成功したお金持ちの国とされていたのでした。
またバリではゴトン・ヨロン(相互援助)の精神がありお金があるがない人をサポートするのは普通だとされていました。
しかし、それを恋愛に持ち込み嘘で家族が病気なとどいってたくさんのお金をだまし取るなどしていたのでした。
余るほどあれば勿論あげても全く問題ないですが、日本で普通に働いていたらそんなに余るほどのお金はないと思うのできちんと対応する事が大切だとされていました。
そういう人が全てではなかったですが、その長髪の素敵な青年は大学に行けるというのはバリではある意味一般家庭より裕福だったし本当に困っているのとは別でそこに話題がいってしまうのは本当に悲しかったです。
でもバリでは普通の事でただ言ってみるという場合も多くあり出来ない場合、したくない場合にはきちんと話をすることも大切でした。
しかし、そこまでしてという思いもなかったので返事はせず終わりにしようと思ったのでした。
唯一の救いは連絡しなくってから私の誕生日にはバラの絵にHappyBirthdayのオルゴールがついたカードをバリから送ってくれたのでした。
この人のおかげで長髪のイメージが覆り、とても良くなっていたのでした。
そうやって長髪の男性でもOKになるなどその前にはちゃんと嫌いが好きになるような出来事ってあって起こることには必ず意味があるのだと学んだのでした。
このタバナンの青年がとても素敵だったので実はバリで旦那様と出会う前に神様に「あと1回逢いたい」と願った事がありました。
その願いの数日後、デンパサールのマタハリ(少し高級なスーパーという感じ)のイートインで偶然会うことが出来たのでした。バリでたった一人の人に願って出会えるのってこの時バリには神様が本当にいると実感したのでした。この会いたい願はまた別の機会でも体験するのでした。
私達(Kちゃんと私)はローカルスーパーや布地を購入して服のオーダーをしていたので布地を買ったりするなどの買い物の帰りにお腹がすいたのでマタハリのイートインへ寄ったのでした。
青年は友達と話をしながら食べていて、青年を見つけた時はとてもびっくりしました。(おいおい叶ったぞーと)
しかし、青年はバツの悪そうな感じで顔の前で手を前で組み顔を隠していました。
でも会いたいと願ったのは私なので近づいていき私は「幸せにね」という思いでニッコリ微笑んでその場を去ったのでした。
バリの不思議体験は今後もいろいろと続きます・・・・
またまた話がすれでしまいましたが、友達のレストランで今の旦那様との出会いでしたね。。。
旦那様はどうやらボスのご飯を買いに来て出来上がるまでの時間をつぶすのが目的だったようです。
(バリ島ではどこのレストランでも昔からどんなメニューでもブンクス/テイクアウトが出来たのでした)
旦那様は以前私と道ですれ違ったことがあったそうで一人だと聞いて2Fへ上がってきたのでした。
旦那様はその時日本語や英語も出来ず私はバリで店を開店する目的もあったのでインドネシア語の勉強を独学で開始していて簡易辞書とメモ帳を持っていたのでそれを駆使して話していました。
こういう時って不思議と言語って完璧に出来なくても全く問題にはならなく反対に理解しようとするから通じてしまうのです。
またわからない言葉もあり通じるとクイズに正解したような達成感もありとてもそれも面白いのでした。
旦那様との言葉のクイズは今でも続いています。これも飽きない理由かもしれません。。。
その時旦那様が「このなぞなぞ解けたらアイスおごってあげるよ」と言って確かマッチ棒のなぞなぞだったと思いますが私は見事に解けておごってもらう事に。
ボスにご飯をとどけなくてはいけないのでおごってもらうついでと特別予定もなかった私は旦那様の仕事場のギャラリーまでつれていってもらうことになったのでした。
子供には知らない人には「アイス買ってあげるから」と言われてもついて行ってはいけないといいながら大人が行っちゃうのですからね。。。
私は慎重な性格で誰とでも初対面でも話しはできますが、なかなか信用する事は出来ませんがこの時は友達の友達だしなんなせ「いたー」と感じたのでどうしても一緒にいたいと思ったからの行動でした。
勿論ちゃんと途中でスイカとアイスをおごってもらいました。
その時旦那様はアメリカ人のボスがギャラリーを借りていてそこで絵を書くアシスタントの仕事と運転手をしていました。
(その時今の仕事は仮で本当は秘密警察だとかも言っていました。今思うとわけのわからない事を行っていたなと思いますが嘘のような本当のような話しをするのがバリ人なのです)
バリの家の作りは小さな門を入ると中が開けて広い作りが殆どで道路沿いの大きな駐車場に車を止めて門に入る時なかなかの段差があり転ぶと危ないので旦那様は手を差し伸べてくれたのでした。
その時絵具で汚れた手でしたがやわらかくで懐かしい感触がしたのでした。
中に入るとロータスの咲いている庭が見えそこを抜けると体育館のような大きな建物がありその先は見渡す限りグリーンの田んぼが広がっていてサワサワと稲を揺らし青空の中風が躍っている感じがしてとても美しかったです。
その体育館のようなギャラリーを入ると居たのは殆どの人が髪の毛が長く(6~7人くらいいました)絵を描いている人、端っこには住んでいるかのようなベッドもありそこで寝ている人、おしゃべりしている人、卓球をしている人、描きかけの大きな絵がたくさんあり、音楽も流れていました。
その時流れていたら曲がマレーシアロックの「Kulihat Surga Di Matamu」(君の眼の中に天国が見える)でした。
この曲は旦那様が当時よく鼻歌で歌っていた思い出の曲です。
最近もWebで探してみましたがダウンロードできるのは少し編曲されたりしているもので元の曲には出会えませんでした。。。
当時は詩を友達に書き写してもらい覚えて歌っていました。。。少し寂しげな曲調です。。。。
私を連れているのを見るとみんなびっくりしてニコニコしてコピを出してくれました。
日本語が出来る人は誰もいませんでしたが持っていたインドネシアの簡易辞書と覚えたてのインドネシア語と英語を駆使しておしゃべりしたのでした。
私も一人でしたし特別予定もなかったのでそのままそこで卓球をしたりして夜まで過ごしたのでした。
それから日本への帰国までは毎日遊ぶようになりました。
その時とても細かいキレイな絵を描いていたMADEさん(この時一人だけ短髪で優しい感じの人だなと思いました)に「よかったね。夢で見た事本当だったね」と旦那様が言われていました。
旦那様は以前から運命的な出会いをする人は事前に夢で見るという人だったのでした。。。
しかし、出会ったのが1月1日だったので私は3日後には日本への帰国の予定だったのでした。
この時ほど日本への帰国が悲しかった事はなかったです。
帰国までの間にもバリ人の友達から彼(旦那様)はたくさん彼女がいるし遊んでいるからやめたほうが良いとかいろいろと言われました。
それを旦那様に直接聞いた時
「自分はそういう人ではないし、そういうふうにみられる場合もある」
「だから誰を信じるかは君自身が決めれば良いだけだからもし信じられない場合は車から降りて」
と言われたのでした。いやー超アッサリいいきるかー!!
私はそれまでの経験から自分が見たこと感じた事しか信じないと決めていたので車からは降りませんでした。
それまでもいろいろな経験がありましたが、何が真実で何が嘘なのかではなく自分がどうしたいか自分に説いてその結果は全て自分が責任をとると決めて車を降りない事を選択したのでした。
この選択方法は今でも変わっていません。。。また数年後にこの選択をする事が起こります。
そんな出会いの翌日には旦那様の一番上のお姉さんがデンパサールに居るというので連れて行ってくれました。
旦那様の兄弟は1番上、2番目そして5番目と6番目が女。
真ん中2人がお兄さんと旦那様の男の6人兄弟でした。
一番上のお姉さんもとても優しくて自家製のコピを出してくれたのですが、それがとてもおいしかったのを覚えています。
(いつもお姉さんの自家製コピはおいしいからかデンパサールへ行くと必ずお家に寄らせてもらいました)
そしてそのお姉さんの旦那様は日本人経営のホテルに勤めていて少し日本語が出来たのでした。
バリ人はよく家族に自分の友達を普通に合わせるので私も普通におじゃましたのでした。
初めて旦那様と出会い私が帰国する日旦那様はバンガローの向かいから私が車に乗るところを見ていて寂しくて泣いていたと帰国してからの最初の手紙に書いていました。
帰国してからは1週間に1回必ず手紙のやり取りと週1回の国際電話をしていて私が日本にいる時は結婚するまでの3年半このやり取りが続くのでした。
今のように携帯はまだ一般的に普及してなかったので手紙と電話のみだったのでした。(バリでは携帯はもっていましたが、日本では仕事だけの日々なので携帯はもっていなかったのでした)
私は今でも旦那様とのやり取りの手紙を保管しています。
自宅のポストに旦那様からの手紙が届くと本当にとても嬉しかったのでした。
でもそんなバリからは相変わらず彼(旦那様)は他にもたくさん彼女がいるからやめたほうがよいとか、忠告するように手紙や電話が日本に入るのでした。
それまでもいい感じになったバリ人がいても実は結婚していたというような事も経験していたし、宗教観や考え方、そういう人もいる事も理解していました。
問題があれば直接聞くし、確認し自分で判断するという事にしていたのでした。
そんな旦那様との初めての出会いがあり帰国した日本で仕事の改革と称され3月いっぱいでチーム全員の年度内での契約の終了を告げられたのでした。
その少し前に異動してきた上司とは殆どの人とそりがあわず上司は孤立していたので、気に食わない人を全員切ったようです。
今ではそんな事したら大変ですがその当時は出来たのですよね。。。
(事が起こる時はそんな流れになりますね・・・何かを失うと何かが手に入ります・・・・)
またまた余談ですが。。。バリで旦那様との結婚式の為、日本から私の家族をバリの空港へお迎えに行ったときどうやら家族と同じ便だったらしく私をクビにした元上司とばったり空港の出口で会ったのでした。その上司は国際協力でインドネシアに駐在していたことがありインドネシア語も出来たのでした。
GWの中でしたが一人で来たようで、お迎えの人を探していました。向こうは私の事は見ましたが全く気が付かない様子だったので私も声はかけずでした。
しかし、この元上司が契約終了の判断をしなかったら結婚までいっていたかはわからなかったので結婚式の前に嫌な上司でしたが会えた時、その嫌いだという気持ちは「ありがとう」へ変わっていました。
人生が変わる時にその前の嫌な出来事の張本人に会うとはホントバリではいろいろな事が起こります。。。
でもそれで区切りが付けられたので私はすがすがしい気持ちになり日本からの家族をお迎え出来たのでした。
旦那様に出会って、帰国。
その後契約が終わることになり、有給もあったので2月末で仕事の契約を終了し今後の事も考えたかったので次の職は決めず3月に3週間の予定でバリへ行く事にしたのでした。
(一応帰国してからの職さがしもあったので・・・)
それからは短期契約の仕事しかせずバリ島中心の生活となっていきます。土日もかけもちで仕事しお休みはありませんでした。
若いから出来た事ですね。
バリではその時ビザなしで2ヶ月滞在できたので、次回のバリからは旦那様の親戚のバンガローで2ヶ月ずつの滞在となっていくのでした。
その頃ウブドでは今のように長期滞在の日本人は現在程多くなく行くところも大体決まっていて殆どの人を知っているというくらいでした。
今後はKちゃんとのバリではなく私も旦那様にあう為のバリ滞在になっていったのでした。
この後もいろいろな事が起こりますがそれはまた次回に・・・
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?