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現実と想像のギャップ

小説家として名を上げたいと思っている数多い人たちの中に、私も入っています。正統的なミステリーやSF小説、はたまた伝記小説などジャンルは様々ですが、プロになる前は、材題探しに苦労します。

中でも、ノンフィクション風小説は、実体験をもとにして書くとよりリアリティが出ると言いますが、危険な事や実現不可能なことを実体験することはできませんので、想像の中で夢想体験をするしかないことになります。

実は、その少し危険な要素を含んだ体験を、好奇心に負けてしてみたことが有ります。
小説では、実際に体験した危険を誇張することになりますが、快楽と背中合わせの関係にある危険を味わってみると、もっと危険領域に迫ってみたいという欲求が出てきます。
これ位ならまだ大丈夫、もう少し踏み込んでも平気そう、あと一歩危険領域に迫ってみよう、そしてついに、危険領域に踏み込んでしまったんです。

何をどうしたかは、小説の中身に通じてしまうので詳しくは書けませんが、危険領域に踏み込んでどうなったかと言えば、手ひどい衝撃を全身に受けてしまい、絶叫しようにも声が出せず身体が硬直する状態に陥り、10数分に渡って体の自由が効かなくなりました。

どんな種類の危険なのかは内容が内容だけに書くことができない類のものと言っておきます。
とにもかくにも、その手酷い状態に身を置く体験をさせられてしまったことで、執筆中の小説はかなりリアルに場面を描くことに成功しましたが、それ以上の危険体験は間違いなく「鬼籍」への近道でしかあり得ないので、やってみたいとする願望は抑えています。

でも、人はいったん味わってしまった極端な状況のさらに先にある未知の領域に挑もうとする無謀とも思える挑戦的な欲求が有ります。
そして、やめておけばよいのについに禁断の領域にもう少しだけ深く入り込んで行ったのです。

結果は前回以上にダメージを食らって、………まあそれ以上は書けませんね。
ただ、言えることは、小説家に限らず表現を追求する立場の人々は、時に体験への欲求に抗えず、鬼籍に入ってしまわれるんです。

でも、当たり前のことですが、鬼籍に入ってしまったら、誰もその好奇心をみたす行動を誉めません。「惜しい才能をなくした」のでは、いけないんです。小説家として存在はしていても影響力の全くない私ですが、やり直しの利かない道に踏み出してでも、運良く無事生還できてこうして記事を書いています。

今、その実体験をまとめたノンフィクションと、小説とを並行して作品を執筆中です。どこをどう誇張していくか、危険体験の「危険たる由縁」を思い起こしてその先を考察しています。
この行動は、しかし、とても危険なものです。危険なものにまた触れてみたいとする好奇心を抑えるのにかなりにエネルギーを使っています。
でも、次は、間違いなく「ありません。」

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