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紅葉を見ながら「プライドの高さ」を振り返った話

今年は罪悪感と葛藤した一年だった。仕事。お給料もらっているのに、その分働けているのだろうかと。特に利益を作る仕事ではなく守る仕事だったからこそ、貢献している感覚がわからなかった。

プライベート。親がもうすぐ還暦を迎える。迫り来る定年退職と、微か脳裏に浮かぶ「介護」という文字。家族が新しい局面を迎える中で、自分がどんな役割を果たせるかわからなくて、困っていた。

罪悪感を深ぼると「結果が出ないことは許せない」という呪縛だった。仕事もプライベートも他人に貢献できていない自分が許せなかったのだ。だったら結果に向かって、ひたむきに努力をすればいいんだけど、一度躓くと気力を失ってしまって。メンヘラちゃんが自分の心の中にやってくる。

一時期、インスタグラムを開けなかった時期があった。あのキラキラした投稿を見て、他人の幸せを受け入れられなかったのだ。(なんと心が狭いのだろうか!)

ただ、この秋、紅葉を見てから、少し「罪悪感」に対する考え方が変わった。いつものようにお散歩をしていたとき、色鮮やかな紅葉を見つけた。葉っぱが散っていく様子があまりに美しく、シャッターを夢中で切った。サムネの写真がそれである。
紅葉はその存在自体がとても儚い。一年の中で数週間だけ紅に染まる。
その美しさの裏に儚さがあると、しみじみする。

紅葉は、その数週間しか輝けないことが辛くないのだろうか。でも、わずかな時間でもあんなにも美しく人を魅了する存在であることは羨ましい。

人も一緒なんじゃないだろうか。ずっと綺麗で輝いて、上手くいって上手くいっている人なんていない。当たり前すぎることなんだけど、

個性が叫ばれる時代、「みんなが主人公」とか言われる。でも「個性」とか、「オンリーワン」とかは勝つこと、上手くいっていることが前提であるように感じてしまう。

私はその言葉から「主人公として輝かなきゃ」と勝手に思い込んでいた。そして、結果が出せない「コミュニティで脇役の自分」が許せず、罪悪感と闘っていた。
でもみんなが主人公だったら、物語がうるさすぎる。脇役や、その他大勢がいることで、主人公が輝く。脇役になっていてもその他大勢がいても、何かのストーリーの一部になる。

だから、常に結果を出し続けなくてもいい。負け組で脇役でいる自分に罪悪感を感じなくてもいい。自分の弱さを拒否すると、相手も傷つけてしまう。他人の弱さも優しさも受け入れられなくなってしまう。

人と楽しい時間を過ごしたい。そう願わない人はいないだろう。目の前にいる人が同じでも、「自分のあり方」でその姿が変わってくる。だからこそ、相手を見て、僻む自分ではなく、人の弱さや優しさを愛せる自分でいたい。

もしかしたら、この考え方自体が「負け組」の負け惜しみかもしれない。でも、「結果を出したい」さらに「勝ちたい」というプライドの高い自分を試みて反省してしまったのだ。無駄なプライドを超えて、豊かな人生を編み出せる自分でいたいな。

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