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そこには、後世の心ある人々によって道真と秀吉の無念に報いた社(やしろ)が静かに存在している…★京都シリーズ★【KYOTO・京都③:執念=新日吉神宮(2018)】

 歴史は、その人がどんなに優秀であっても、どんなに偉大であっても、ひとりの人間の隆盛や栄華をいつまでも許しているわけではないようだ。例えば菅原道真、そして例えば豊臣秀吉。今や歴史上の大ヒーローであるこの2人も死の前後からかなりの間、汚名を着せられた時代の流れの中でその霊はおとしめられた時期があった。権勢を誇った秀吉でさえ、豊臣家の忠臣のように振る舞いながらその実狡猾に立ち回った徳川家の陰謀によって、豊臣家の遺族たちの一部は悲惨な最期を遂げる。京都市東山区東山七条東入にある新日吉(いまひえ)神宮には、後世の心ある人々によって道真と秀吉の無念に報いた社(やしろ)が静かに存在している。それはまさに道真と秀吉の執念と、それらを受け止めて霊を鎮めようとした京都の人々の物語とともにある。

 新日吉神宮は平安時代の1160(平治2、永暦元)年に後白河上皇が、天皇退位後も実権を握って政治を動かしていた時代に、御所(法住寺殿)の守護神として、京都・東山の地に比叡山の日吉山王社から勧請したのが始まりとされる。「新日吉(いまひえ)」とはまさしく新たに創った日吉の社という意味で、当時の人々の思いが伝わる名前である。創設されたのは現在よりやや南に位置する場所のようだ。
 なお、本来は特別な由緒を持つ神社にしか付けられない「神宮」という名を持っているのは、1958年に後白河天皇を増祀したためで、その翌年の1959年に新日吉神宮となっている。

★京都・新日吉神宮の本殿(撮影・阪清和)

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 権勢を誇った後白河上皇の主導によって創られた神社だけあって、新日吉神宮の公式資料によると、創建当時は神殿には7つの神座を備え、廻廊がめぐらされていたというから、かなり壮観な眺めだったようだ。
 さらにこの新日吉の社を護るために、同じ比叡山の延暦寺にある妙法院を、現在の八坂神社である祇園社の西側に移す関連事業も行っている。
 こうして盤石の態勢で出来上がった新日吉の社。当時、熊野信仰と同じほど日吉に対する信仰も盛り上がっていたことから、上皇や法皇などの参詣も相次ぎ、後白河上皇自身も100回以上参詣しているという。

 しかし時は進んで鎌倉時代、武士の世となり、さらに進んで室町時代中期には京の都を焼き尽くした応仁・文明の乱などで、新日吉の社も大きな被害を受け、戦国の世に進むに従って、衰退することとなった。

★京都・新日吉神宮の朱色の門(撮影・阪清和)

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 そしてこの新日吉の社の歴史に登場するのが、豊臣秀吉である。
 秀吉は桃山時代に方広寺大仏殿を造営(ここに吊るすはずの梵鐘の銘文に徳川家康を愚弄する表現が書き込まれていると徳川の重臣らからいちゃもんをつけられ、豊臣家が窮地に陥るのだが、そのお話はまた別の機会に…)し、三十三間堂なども含めた広大な境内を形成した。
 秀吉は1598(慶長3)年に病死したが、秀吉はその死後、自らを八幡神とするよう遺言をしたためていたため、豊国の社を新日吉の社北側の区域に創設。その東側にある油が峰に御廟が建てられた。
 しかし、豊臣家の滅亡によって徳川幕府は1615(元和元)年に豊国廟や社などの廃止を決定。妙法院門跡・智積院に加え、新日吉の社を豊国廟前に移した。それはまさに豊臣に対する弾圧で、遺体さえ山頂に遺されたとのむごい説も残っている。社殿は秀吉の正室のねね(北政所)の懇願を聞き入れて残したものの、旧参道の上によりによって新日吉の社が移設され、社殿への道も閉鎖した。新日吉の社は後水尾天皇の勅命で造営され壮観さを一定程度は取り戻したものの、豊国社の跡は荒れるがままで、ねねの悲しみはいかほどかと推察される出来事だ。
 実は、豊国社のご神体は、ひそかに、豊国社を取り仕切っていた吉田家の一族である神道家の神龍院梵舜(しんりゅういん・ぼんしゅん)がひそかに自宅で隠し持っていたという説が有力だ。そして、新日吉の社の神殿で密かに祀られていたのである。

 徳川の歴代将軍の中には、豊国社の再興に理解を示す者もあったが、重臣たちは強く反対し、江戸時代にその再興が許されることはなかったのである。
 しかし明治天皇が秀吉を高く評価していたことから、明治時代直前の慶応年間である1868年に豊国社の再興が命令され、1875(明治8)年に社殿を建設。1897(明治30)年には、阿弥陀が峰に巨大な五輪塔が建てられ、再興を絶対的なものにした。

 こうして再び日の目を見た豊国社、そして豊臣秀吉だが、世間から「消滅」させられていた江戸時代も、秀吉や豊臣家を慕う人々は、秀吉という魂をないがしろにしていたわけではなかった。
 梵舜は歴代天皇だけでなく、徳川家康に駿府城や大坂城で神道について進講するほど関係が良く、家康の葬儀を任されるほどの存在だったが、社僧となっていた豊国廟の弾圧が始まった上、家康の祀り方についての他の神道関係者との論争に敗れた(この論争の結果によって、徳川家康は東照大権現としてまつられたのだが、この話もまた別の機会に…)こともあって、次第にさまざまな嫌がらせを受けるようになった。
 そしてとうとう、吉田神道の拠点だった神龍院に引き込むことになり、表舞台からはその姿を消しているが、梵舜は前述のように神体を自宅に隠し、その再興を祈り続けたのである。自宅に最初から隠していたのか、直接新日吉の社に移されたのか、その経緯は良く分かっていないが、秀吉のご神体はこうして守護された。
 梵舜が綴っていた日記は、近年、豊臣から徳川へと交代していく権力の動きを分析したり、晩年のねねの状況を推し量ったりする場合の最大級の資料であるとされているほど梵舜とねね(高台院)は仲が良く、ねねは秀吉のご神体のありかを誰よりも知っていたことだろう。

 梵舜は1632年に亡くなっているが、それからさらに120年ほど後の1758(天明5)年に新日吉の社の境内の中に「樹下社(このもとのやしろ)」が造営され、ご神体はひそかにそこに移されている。一見何気ない社名だが、樹下は秀吉のもともとの苗字である「木下」に通じ、こうしたもじりの中で人々は秀吉への思いを育んでいたに違いない。
 ひとつの説には過ぎないがさらに言えば、新日吉の社の「日吉」は、秀吉の幼名である「日吉丸」にも通じ、その連想ゲームをより豊かなものにしている。
 新日吉神宮のホームページなどによると、樹下社では江戸時代も徳川幕府の目をかいくぐって途切れなく祭祀が行われてきたというから、秀吉に対する熱い思いが伝わって来る。

★京都・新日吉神宮の境内で樹々におおわれた豊国神社。「樹下社」として造営された(撮影・阪清和)

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 前述したように、1897(明治30)年に明治政府の後押しもあって豊臣関連の施設が復活した際には、新日吉の社は元の豊国社の参道上に移設されていた場所から南西方向にあたる現在地に移動している。いわゆる豊国神社はもともと方広寺大仏殿があった場所に再興され、新日吉の社の境内の中に「樹下社」として建てられていた社も、新日吉の社と共に現在地に移設され、豊国社(樹下神社)として新たな歴史を歩み出したのだ。

 豊臣は徳川家直接のライバルであったため、江戸初期に弾圧の憂き目に遭ったことは歴史の流れの中では致し方のないことだっただろうが、秀吉への強い忠誠心を持った人々や、秀吉が歴史において成し遂げた功績などに敏感だった人々が、何百年もの間、その思いを受け継いでいったことで成し遂げられたのが「秀吉の復活」だったのである。

 一方、新日吉神宮に存在するもうひとつの執念、菅原道真の執念はさらに根っ子が深い。
 道真は幼少時から学問や詩歌に優れ、醍醐天皇の時代に右大臣にまで上り詰めるほど重用されたが、左大臣の妬みから謀略の疑いを掛けられて太宰府に左遷されたことはあまりにも有名だ。
 特に、京都の居宅でよく眺めていた梅の木が、主が左遷された太宰府まで京都から一夜にして飛んで行ったという「飛梅」伝説を知らない人はいないだろう。
 道真は太宰府への左遷が決まった901(延喜元)年、京都の居宅に植えられていた梅、桜、松の木を眺めながら、梅の木に向かってこう語りかけた。それは和歌として詠まれたものだ。

 「東風吹かば にほひをこせよ梅花 主なしとて 春を忘るな」

 平安時代の書物には「東風ふかば にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」との表記もあり、そちらの方が私たちには耳なじみがあるが、いずれにしても、現代語訳、そしてその意味はこうである。

 「春になって東のあたたかい風が吹けば、いい匂いのする花を咲かせておくれ。主人がいないからといって、春の到来を忘れてはいけないよ」

 私たちが世代さえ関係なくこの和歌を吟唱できるのは、教科書を丸暗記したからではなく、その道真の切なる思いや、京の人々を悲しませてはいけないと主人として木々に語り掛ける道真の気遣いが日本人である私たちの心になんともストレートに伝わって来るからだ。悲しく、切なく、やりきれない…。

 実はこの思いに応えたとみられる桜、梅、松の木々は翌春、見事な花や鮮やかな葉を付けたが、桜は次々と散って葉も枯れ果てたという。
 そして、松と梅は主人の居る太宰府へと飛び立ち、一気に西へ。しかし松は現在の神戸市須磨区の板宿付近で力尽き、地上に落下。梅だけは見事に太宰府へとたどり着いたのだという。

 この飛梅伝説に基づく名所はさまざまな場所に残っている。
 飛んで行った太宰府には、太宰府天満宮の本殿に向かって右の場所に「飛梅」が残っている。本来は、道真の居宅があった方に植えられていた梅の木だが、太宰府天満宮の造営時に本殿前に移植され、観光客に親しまれている。
 そして京都の北野天満宮には、当時の京の都に咲いていたと思いをはせることができる梅の花がたくさん咲いている。
 太宰府天満宮の梅の木は、道真を祀って全国に建てられた天満宮に株分けされているほか、飛梅伝説によって飛んでいった梅の木は、大阪、福井、岡山、山口にも存在するとされるが、飛梅伝説がどのように派生したのかは不明だ。

 しかしその飛梅そのものを祀った神社がこの新日吉神宮にはあるのだ。
 太宰府への左遷が決まった901(延喜元)年から100年ほど経った1160(平治2、永暦元)年に後白河上皇が新日吉の社を開いた時に、飛梅の霊と道真公の神霊をここに祀ったのである。

★京都・新日吉神宮の境内にある飛梅天満宮(撮影・阪清和)

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 道真が左遷から戻ることなく亡くなった903(延喜3)年以降、京の都には奇怪な出来事が相次ぐ。
 道真に謀略の疑いを掛けた藤原時平が6年後に病死したのをはじめ、時平の仲間の一人も事故死。時平の甥やその息子も相次いで変死し、御所の清涼殿にも落雷。すべてをたたりとするのは無理があるが、ほぼ歴史的にも正しいとされる関係者の不幸が相次いだことは当時の人々をどれほど震撼させたことだろう。
 恐ろしくなった朝廷の計らいで、流罪になっていた道真の子どもたちは赦されて京に戻り、道真自身も罪を許され、朝廷の位を与えられている。

 このころから道真は怨念となって雷神を操っていると考えられるようになり、朝廷や藤原氏らは雷神や火を祀る北野の地に北野天満宮を建立。天神さんとして親しまれた道真を祀って全国に天満宮ができることとなったのである。

 道真を怖れた朝廷は990年代に入っても、道真にたびたび位を上げた朝廷の位を贈り続けており、後白河上皇が新日吉の社を開いた1160(平治2、永暦元)年はまだ道真の怨霊伝説が生々しかったころである。
 後白河上皇は、道真遺愛の梅の霊と道真公の神霊をこの飛梅天満宮に祀ったのだ。
 いかに深刻な祈りであったかが分かる。

 それにしても新日吉神宮はひっそりしている。紅葉の時期には鮮やかな色で染め上げられるが、冬が過ぎればおびただしい青葉で幾重にもおおわれ、ひたすら清廉で、清々しい。
 秀吉も道真もいまはその怒りを鎮め、静かに世の中を見守っている感がある。
 今や隠す必要もなくなった樹下社なのに、木々によってその存在をあいまいにしているようなたたずまいが往時の密やかな雰囲気をそのまま現代に伝えていて興味深い。

★青葉におおわれる京都・新日吉神宮(撮影・阪清和)

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 飛梅天満宮もいまや、道真の怒りや怨念を感じられる社ではなくなっているが、主を失った梅の霊が、その癒えることのない哀しみや心の傷を今も静かに私たちに訴えているようで、心が痛い。
 実は私がこの新日吉神宮を訪れた2018年6月30日、京都の中心部からタクシーで神宮に向かう私の来訪を感知したかのように、神宮の上空に一転にわかに雲掻き曇り、神宮に着いた頃には真っ黒な雲に成長。土砂降りの雨と、20秒おきに落ちる雷で大変な状況になった。
 善意の取材者であることを知らせようにも雷神は取りつく島もなく、私は10分以上も社務所から身動き一つできなかった。
 これが道真の怨念なのか、道真への熱い思いを持つ梅の霊に同情心を感じていた私への時平らの怨念が引き起こした超常現象であるかは不明だが、ピンポイントで降り込められた恐怖は今も鮮やかに残っている。

 新日吉神宮にひっそりとたたずむ道真と秀吉の執念について語ってきたが、他にも見どころが多い。
 境内を進み、本殿前には「阿吽」狛猿があり、神の使いとされた猿の像がある。これはもともとの日吉社(現在の日吉大社)にもある日吉の信仰のひとつで、「さる」という音感を「(災厄が)去る」「勝(まさ)る」につなげたり、猿の音読みの「えん」を「縁」や「円」につなげてきずなや幸運をもたらすものという意味を持たせたりしているのだ。
 ここでしか買えないお守りに「ご神猿守り」があるのはこのことからだ。

★京都・新日吉神宮。本殿前にある「阿吽」狛猿のひとつ(撮影・阪清和)

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 ご神猿は大津市の日吉大社のほか、京都市の御所の東北の角にもある。特に御所のご神猿は、それが掲げられた場所が「猿が辻」と呼ばれるゆわれともなっている。
 同じ日吉大社からもたらされた猿と言われており、どちらも金網に入っているのが特徴。一説には神の使いであるにもかかわらず、夜な夜な遊びに行ってしまうため閉じ込められているとも。なんともほほえましいエピソードではある。
 新日吉神宮の猿を御所や日吉大社のご神猿と比べてみるのもおもしろい。

★これだけエピソード豊かな神社を複数抱えているだけあって、京都・新日吉神宮の朱印は5種類ある(撮影・阪清和)

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【ご案内】
 当ブログ「SEVEN HEARTS」では、京都の街もエンターテインメントの一環ととらえ、観光コースではなかなか味わえない価値を持つ京都のスポットを紹介しています。そしてそれは観光というよりも、その場所の持つ精神そのものと出会う旅としてご紹介。しかも毎回同じ切り口ではなく、テーマやアプローチするための方法を変えながら、京都の神髄に迫っています。
 まだ今回で第3回ですが、第1弾は洛北に建つ「圓光寺」をご紹介し、大反響を得ました。禅宗の厳しいしきたりに守られながら、境内のどこを切り取っても絵になるデザイン性を誇り、紅葉の時期には、京都のどこよりも美しい紅葉の庭を見せてくれる屈指の端正さを持つ圓光寺をアートやデザインの観点からご紹介しました。
 また第2弾として「養源院」をご紹介しました。京都にあまたある歴史とは切り離された名もなきお寺のようにも見え、通り過ぎていく人も多いお寺ですが、その起源は秀吉の側室になった茶々が織田信長によって滅ぼされた父である浅井長政夫妻を弔うために秀吉に建ててもらったお寺で、その後茶々自身や秀吉、徳川秀忠、江、徳川和子と戦国から江戸初期をにぎわせた著名な人々の運命に少なからず関係し、さらには伏見城で憤死した鳥居元忠の怨念もまた存在する寺院です。そんな奇跡のような養源院を「おんなの情念」という観点から切り取りました。
 自分で言うのもなんですが、私が手掛けるこの京都特集はとてもユニークなもので、観光コースには入らないような場所に毎回違った視点で光を当て、新たな魅力をご紹介するプログラムになっています。美しい写真と精緻な文章でご紹介するそれぞれの場所はきっとあなたの記憶に長く残っていくはずです。
 今後、これまでよりも掲載のペースを上げ、シリーズ化して、1カ月に1回の割合で当ブログに掲載していきたいと考えています。少なくとも100カ所以上は紹介していくつもりですので、ご期待ください。
 最終的には、当ブログから独立させて、いろんな方々と事業化していく計画も持っています。関心がおありの方はご連絡(saka@sakaoffice.com)ください。

 いずれにしても、この京都特集は観光情報ではないので、交通機関や所在地、拝観料、拝観時間などの細かいインフォメーションはいたしません。読まれた方がもし行きたいと思ってくださったら、ご自身でいろいろと調べて、ぜひたどり着いてください。

★阪清和のエンタメ批評&応援ブログ「SEVEN HEARTS」【KYOTO・京都①=ART】 圓光寺(2015)=2015.11.28投稿

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 京都特集には番外編もあります。

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