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苦しんでいる人に正論を言うな、の正論ってなんやねん?という話

Twitterの限られた文字数の中でいかにキャッチーな文章書くかの大喜利大会やってる人達の中でよく見られるこの手の文章。なんかイマイチピンと来なくて的外れな気がしてしまう。

そもそも正論ってなんぞやというと「倫理や道理として理論的に整っていて、誤りがない、公益的とされる意見の事」の筈。それを言われて更に苦しむというのは、その苦しみが道理に悖る自己中や、到底実現不可能な訳の分からないヒステリーや、快楽主義者のパラドックスなど、土台無理な自己中の嘆きに過ぎないからなのではないかと。

しかし調べてみるとどうやら今の人達の言う「正論」のニュアンスが真逆に変わってきてるみたいで「非現実的な人間味の無い理想論のおしつけ」「正論の゙正しい゙=本人の主観であり本質的には的外れ」的なもののことを指して「正論」と言ってるらしいんですよね。

いわゆる「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」的なヤツを「正論」と呼ばわっているらしい。エー(。•́ㅁ•̀。)それ全然正論じゃないよ、曲論だよ。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」的なことは、傷付いたり悩んだりしてなくてもどんな状況でも言うなやって思いません?そんな事言ったところで全くの無意味かつ馬鹿すぎるから。
最近では「少子高齢化社会の解決法→高齢者が集団自決すればいい」で地球規模でブーイングうけた人とか居ましたが、今使われている「正論」てつまりそういうもののことですよね。

まぁ言葉の使い方が本来のものと異なって変わっていくというのは結構よくある事で、こういうのも内包される意味合いが変化していくのは止めようもない事なのかもしれません。

しかしながら、じゃあ本来の「正論=有益で道理にかなった正しい意見」はなんて呼ばれることになるんだろう。中央値の意見交換にはそんな言説はほぼ皆無だから、存在しないものに名前なんか要らないんだろうか…

また彼らはいつも「苦しんでいる人に必要なのは共感です。正論なんか言うな」と、共感と正論は対義語として使っている模様。Ҩ(´-ω-`)ウーン…💭

本来の意味での正論が伴わない単なる゙共感゙て、なんか感情論になりがちな気がするんですよね。ともすれば「えー!そんなこと言うなんて酷いよね!あの人は敵!」と、ネガティブな寄り添いが分断や対立を悪化させかねないような気も。仲間意識が生まれると、ともすればそういう共感の仕方をしてしまうのは自分にもあって、果たしてそれが相手の為に良かったのかどうか、人間関係に良くない投石をしてしまったのではないかとか、やってしまってから自己嫌悪になってしまうことも…😔

まぁ物事って必ず様々な側面や情報を持っていて、どこに焦点をあてるか、どちらから見るか、何を目的とするかによって多種多様で、それらは全て正しい(事実)ことだったりするんですよね。

例えば知人が古い家をリフォームしたとして、案内を受けた時に「実はここの窓は意見の対立が起きて、自分ははめ殺しの窓がいいと思ってそうしたんだけど、家族からば開けられない窓なんでといつも文句を言われるんだ」という話を聞かされた時。

世の中には「まだ選択に悩んでいる途中」や「直ぐに変えられること」と、「容易には変えられないこと」や「もう選択して結果が出ていること」があるわけじゃないですか。前者なら様々な情報を提供していくらでも話し合えるけど、後者なら今更言っても仕方がないし、無意味で嫌な思いをするだけですよね。

だったら「はめ殺しの窓のいい所」をあげて、「この選択で良かったんじゃない?」という結果に対する肯定的な意見を言う方がメリットが大きいと思うんですね。例えば「北側の窓だから隙間が無い方が暖房効率に良い」とか「空気の入れ替えは対局の二点が開けばいいのだからこの窓にこだわる必要は無い」とか「隙間から砂が吹き込んできたりするので、開け閉しない採光用の窓は初めからはめ殺しの方が汚れなくて良い」など、ある側面から見た利点は全て事実と整合性のある正しい論だと思うんですね。

いつまでも変えられないことに対して文句を言い続ける無意味さより、その選択を肯定する方が建設的じゃないですか。

これは共感的でもあるし、また、正論でもあるんじゃないかと思うんですよね🤔

結論としては
「あなた方の言ってる正論て、正論じゃなくて曲論のことですよね?」
「正しさを伴わない感情的な共感は、場合によっては人間関係の揉め事に油を注ぐ危険性あり」
「共感を伴う正論は大切だと思うよ」
ってことです。


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