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祖父が僕に教えてくれたこと

(今回1万文字を超えています。どうぞ時間がたっぷりあって仕方がないって時にお読みください。)


皆さんこんばんは。よしもと所属芸人、ブルーレディの田中凌です。
現在、よしもとで芸人をやりながら、韓国でK-POPアイドルとしても活動している唯一無二のイケメン芸人です。



そんな僕が今日お伝えしたいのは、僕の祖父についてです。

母の父、まあつまり僕にとっては普通に当たり前に「おじいちゃん」なんですけど

なぜか僕は彼のことを「ちち」と呼んでいました。


これには明確な理由があって、僕の母も、祖母も、母の姉もみんな揃って「ちち」と呼んでいたからです。
父=ちち 読み方はそりゃそうなんですけど、いまどき中々自分の親のこと「ちち」って呼ぶ人いないですよね。

ましてや孫がおじいちゃんのことを「ちち」って呼ぶのはもう説明ついてませんもんね。

でもそういう環境だったのです。
ちなみにこの話をすると、その流れで
祖母のことも「はは」と呼んでいるの?と聞かれるのですが
そこは「〇〇〇ちゃん」と呼んでいます。

いやこれもおかしいんだけれども。


そんなこんなで今日は、ちちこと祖父の話。



僕が祖父と一緒に暮らし始めたのは5歳のころ。

元々そう遠くないところに住んでいたのですが、僕の両親の離婚を機に母とふたりで祖父母宅へ。
幼稚園卒園してすぐの話でした。


小学生の頃、僕は祖父のことが苦手でした。

嫌いって訳じゃないし、普通に好きなんだけど、とっつきにくくて頑固だし、甘やかしてくれないし(今考えれば相当甘やかされてた)
俺のTシャツ勝手に漂白して、かっこいい黒いTシャツが居酒屋でバイトしてる人の黒スキニーみたいにオレンジっぽくなっちゃった時とかめっちゃ泣きました。

他にも、車のクラクション勝手に鳴らしたら怒鳴られたし(確実に俺が悪い)
祖父の後の風呂44℃くらいになっててくっそ熱いし、外食で店員に変な絡みしたりするし。

でも、そんなこと今捻り出さなきゃ思い出せないくらい些細なことで
祖父は数えきれないくらい色んなものを僕に与えてくれました。

その内の1つは、野球。

当時小1の僕は、周りの仲いい友達がやっていたから、何となくサッカーをやっていました。
特に好きな選手はいないし、別にうまいわけでも無いし、でも何となくサッカーをやっていました。

祖父は野球が好きでした。毎日ラジオからは野球中継が流れてばかり。


祖父は巨人が大嫌い。いわゆるアンチ巨人ってやつですね。

読売新聞の勧誘は問答無用で突っぱねるし、中継でも巨人じゃないってだけで対戦チームをとにかく応援して、巨人の選手が怪我したらガッツポーズをしてました。ごめんね性格の悪い祖父で。

ですので当然僕も興味を持ち
家からわりと近い、千葉マリンスタジアムに2回ほど連れて行ってもらった覚えがあります。

ロッテのファンクラブも入ってたかな。
多分、せっかく連れてきてあげたんだからってことなんでしょう。

ですが、それでも野球を始めるには至らなかったのです。アホな田中少年は意味もなくサッカーを何となく続けてました。


ですがそんなある日、僕にとって運命の日が来ます。

小学校2年生になった夏、今でも絶対に忘れません。

2003年7月9日(水)明治神宮球場
ヤクルトスワローズ対読売ジャイアンツ 15回戦

先発はスワローズ鎌田、巨人は上原。

この日、学校を終えてすぐに祖父に連れられて、神宮球場に行きました。


人生で初めての神宮球場。学校終わりに学童に行かずに野球を観に行くだなんて
何だか悪いことをしている気がして、昼間の授業中からそわそわして、周りのみんなにも自慢していた気がします。

電車を乗り継いで、辿り着いた神宮球場、内野席。
そこは千葉マリンとは違う異様な空気が漂っていました。


周りのおっさん達は酒飲んで野次ってばかり、とにかく蒸し暑いし、席もいつもより遠くて観にくい??

いつもイタリアンやスペインバルにばっか行ってるのに、急に新橋の立ち飲み屋に来た、、、みたいな、そんな感じ。
なぜ子供の感情を飲み屋で例えるのか。


そんなことは置いといて、少しして、僕はその違和感の正体は
「不快感」ではなく「高揚感」なんだと気づきました。


正直試合中に何食べて、どんな話をしたかは覚えてません。

でも、あれやこれやじいちゃんに質問して、アンチ巨人ですから、必然的にスワローズを応援して
気付いたら試合はもう9回。

やばい終わってしまう。終わらないで、もっと見ていたい…そう思っていました。

3-5の2点ビハインドで迎えた9回裏

スワローズは、この年西武から移籍してきたベテラン、鈴木健の起死回生2ランでなんと同点に追いつくんです!!!(うろ覚えだけど多分合ってる)


やった!まだ試合終わらない!!延長だ!!延長するからまだ試合見られる!!!

大興奮で騒いでいると祖父が一言

「もう遅いから帰るぞ」

祖父のあのトーンを僕は知っています。
もう何を言っても無駄なトーンでした。


子供らしからぬ諦めの良さを見せ、しんみりとしながら帰路につき、家に到着。

ああ、楽しかった1日が終わっちゃった。。。
次はいつ野球みられるのかな。もう観ることはないのかな。というかなんだか疲れたなパトラッシュ…

そんなことを考えていると玄関まで母が走ってきて


「まだ試合やってるよ!!!!!!!」


え?え??え??どういうこと!????

そう、同点に追いついた後、両者点が入らず、延長12回まで突入してたのです。


とは言っても勿論テレビ中継は終わっているので、僕たちが観に行ってるからと試合結果を気にしていた家族と共にラジオの前へ。

手洗いうがいも今日はしなくていいよね。


ラジオから流れる情報に耳を澄ませると、なんか12回裏スワローズ大チャンス!!!


そして誰一人物音立てずに聞き入って・・・・・・・・・




サヨナラ!!!サヨナラ勝ち!!!誰が何してどうなったかは全く覚えてないけど、スワローズがサヨナラ勝ち!!!!!!!!!!!

応援してたチームが勝った!!!!!!!!



この瞬間、僕は野球に魂を売ることを決意しました。

僕はほどなくしてサッカーをやめ、野球のクラブチームに入り、中学では市内の選抜チームに選ばれ、千葉県で準優勝をするまでにいたりました。
プレイヤーとして、いい結果を残すことが出来て、勿論今でも僕はスワローズのファンです。


あの試合以来、毎週のように母に頼んで神宮球場に通い
高校生になってからは1人で行くようになり、大人になった今でも年に20~30試合は現地で観戦して、試合も毎試合追って…

むしろ今の方がシンプルにファンですね。笑


僕の中で趣味って確実に言えるものが3つあって
それは料理、野球、アニメなんですけど
アニメ以外は確実に祖父の影響が強いので、そういった部分で本当にたくさんの物をもらったなって思います。



あの時一緒に野球を観に行ってなければ、今こんなにスワローズのことは好きじゃない訳で。
ワールドカップよりスワローズの試合結果で一喜一憂する自分はいないわけで。
スワローズが負けたことによって吐いた星の数ほどの溜息もなかったわけで
神宮で星の数ほど買ったビールに消えた僕の給料は残ったわけで。


それもこれも、あの時スワローズに出会わせてくれた祖父のおかげです。



祖父は博識でした。

小学生の頃から、正直理解しがたいような難しいニュース話から
今のTOYOTAはいかに凄いか、マツダのロータリーエンジンとはみたいな話から
この花はこうやって育てると良いんだよとか、戦争の話とか


あと、アルフレッド・ハウゼが好きで、よくタンゴを聞かされてました。
ご存知ない方、是非調べて聞いてみてください。耳に残る良いメロディですよ。


家で勉強はしない主義だったので勉強を教えてもらったことはありませんでしたが
勉強以外の、豊かな人間になれるような部分を教えてもらったような気がします。


その中でも特に顕著に表れているのは、やはり料理。


うちはちょっと特殊な家庭で、祖母と母が働いて、祖父が専業主夫をしていました。
なので、朝も夜も祖父のごはんをみんな食べていました。

祖母が10年前くらいに仕事をやめてからは、祖母が基本的に家事をするようになったので
祖父の時代は、正直あんまりどんなものを食べていたのか覚えていないのですが
めちゃくちゃ美味しくって、未だに忘れられないものがあります。

でもそれは決して特別な物じゃなくて、トマトと卵を炒めただけなんですよ。


それが異様に美味しくて僕がうまいうまいって言って食べまくってたから、いつしかその料理の名は「うまいうまい」になりました。



夜ごはんの準備してる所を覗くと「うまいうまい食べるか?」
朝、起きてごはん食べようとしたら「うまいうまい作ってやるから待ってろ」


ひどいときは1週間毎日うまいうまいが食卓に並んだこともあります。笑




美味しい物、好きな物を発表してしまうと、喜ばせようと思ってずっとそれを出してくるんですよね、うちのじいちゃん。

そのせいなのかおかげなのか、うまいうまいは一生食べ続けたい程思い出の味になりました。


年を重ねてからは祖母もいますし、料理する機会も減ったんですが
それでも、たまに作ってくれる料理はどれも美味しかったです。
家でカルビクッパ作るおじいちゃん、他にはいないよね。笑


本人の中に「料理が好き」っていうのもあるのかもしれませんが
それ以上に「皆に喜んでもらいたい」っていう感情で作ってくれていた様な気がします。


美味しいものを小さいころからいっぱい食べさせてくれたおかげで
今となっては、料理でテレビに出られるくらいまで成長して…
頭の中で味の想像ができたりするのは、確実に祖父の美味しい料理のおかげです…


あ、でも、おばあちゃんもありがとう笑



そして祖父は料理だけじゃなく、パン作りが大得意でした。
一度に大量に作ってはいろんな人に配ったりしていて、それこそ一度に作る量は小さめの個人経営のパン屋に匹敵するレベルでした。



なぜパン作りが得意かというと、それもそのはず、昔パン屋をやっていたのです。
といっても、製パンの方で、学校給食用のパンを作ってたりとかそっち系だったそう。
その時のノウハウを活かして、僕にも美味しいパンを沢山食べさせてくれました。

中でも一番好きだったのはベーコンエピ。
ベーコンが入ったくねくねのパン。
上にかかった黒胡椒が良いアクセントになって、本当に美味しかった。
あんな美味しいパン、今でもほかで食べたことありません。


他にも、甘いレーズンのパンとかクリームパンなどの菓子パン
たまに食パン1斤作ったりもしてたな。美味しかったな。。。


レシピをぎっしりとノートにまとめてたので、それ見ながら今度僕も作ってみたいと思います。
が、まずは壊れたオーブンを捨てて新しいのを買わないとだ。


時は流れて僕は高校3年生になり
進路を決める時が来ました。

3年生の夏、母親にふと


芸人になりたい、NSCに通いたい


という願望を伝えました。


僕はギリギリまで迷ってました。大学受験するか否か。

でも大学行って俺何やりたいんだろ?って考えた結果、
友達作ってサークル入って、適当に飲んで騒いでってのを経験してみたいだけなんだろうなと気付きました。


それにそもそも、大学卒業してからNSCに入ろうって考えてたので
いやこの4年間無駄だなと思って、高卒→NSCの選択をしました。



母は最初、まさか息子から芸人になりたいという発言が出るとは思っていなくて、あっけに取られていましたが、周りの後押しもあり、結果的には
「やりたいならやりな、失敗してもあんたの責任だからね」と背中を押してくれました。

ちなみに後から聞いたら、俳優とかなら可能性はあるかもなって思ってたそうです。笑


そんな中、祖父だけが唯一反対をしました。
芸人になること自体を真っ向から否定しているというよりも、大学に行かないという選択が不服だったそうです。


それもそのはず。


自分も学生時代勉強が出来て、良い大学に行くことも出来たそうなんですが、体が弱くて大学進学を断念したという過去があるからです。


だからこそ、健康なんだし、大学に行けるなら行くべきだそれが必ずお前のためになる

そんな考えだったんだと思います。


でも僕も、もう絶対に折ることの出来ない決断をしていましたし、正直祖父が反対したところで関係ねえくらいに思ってたので、聞く耳を持ちませんでした。

別にそのことに関して後悔や謝罪したいといった気持ちは一切ありませんが
もう少し、ちゃんと俺のことを考えてくれてる祖父に向き合うべきだったなと
今思うと少しね…



そんな祖父ですが、僕のライブ、何度も観に来てくれて
アンケートとかもしっかり書いてくれて
客票もしっかり入れてくれて(笑)
テレビにも数は多くないけど出られて


入院してて、事後報告になっちゃったけど
韓国で活動することに関しても、応援してくれて
そしたら母親経由でビデオメッセージをくれて
たまの帰国の度に病院に行って、お見舞いに行ったら入院してる身なのに俺のことばっか心配して

心のどこかで、今後このままずっと、会えるのは病院でだけなんだろうななんて思っていました。



でも、奇跡は起きて
2018年7月6日に退院することが出来て、家に帰ってきたんです。


病気の詳しい話をしてないから、どれくらい凄いことか、いまいち伝わってないと思いますが
まあとにかく奇跡でした、少なくとも僕の中では。


それからは家で、今まで通りとはいきませんが
それなりにみんなと過ごして生活をして時を重ねて
外出の際は車椅子が必須になってしまったので、思うように自由に外出はできませんでしたが
故郷の千葉県銚子市にいろいろな人の協力で2回も行くことが出来ました。


ちちのいない日常に慣れてた我々家族は、いつしか昔とはかたちは違うものの、ちちと共に一生懸命過ごす日々が日常になっていました。
我々の日常にちちが戻ってきたのです。


そして年末年始、僕はお休みを頂いて日本に帰国しました。


家族みんなで集まって、僕の誕生日パーティーをやって

年明けは1、2,3日と、贅沢な刺身食って、超高い肉買ってすき焼きやって、僕からも安物ですが寿司差し入れて
皆で過ごす日々は本当に楽しいなと思って幸せでした。




ですが3日の夜、祖父の体調が急変し、翌4日に病院に連れて行くと、即入院が必要、このままだと持っても1週間だと、はじめて”余命宣告”をされました


いつか来る、避けられないことだとはわかっていたんですが、いざ突きつけられると現実から目を背けたくなります。



祖父が入院した日、怖くて僕は病院に行けませんでした。顔を見たら泣いてしまう気がして。

でも、このまま行かないって訳にもいかず、入院翌日の5日の夜にお見舞いに行きました。





そこには、僕の想像を遥かに超えた元気な姿の祖父がいました。


え?あれ?生きてる?てか普通にしゃべってる?え?なんで?


昨日あんなに怖がってた自分が馬鹿らしくなって、なんだか笑えてきました。
普通に会話できるじゃん。笑 って。


でも、あーよかったーなんて言いながら親と車で家に帰る途中、母は僕にこう言いました

「いつ何があるかわからないから、まだ時間あるし喪服買いに行こう」


え?喪服って葬式の時に着るあれでしょ?
母がそう言う理由はわかります。我々は準備をしておかなきゃいけないのです。
むしろ準備ができるだけありがたいのです。


でも僕はすごく嫌でした。だって生きてるんだよ。元気なんだよ。


よく、甲子園とか見てたらいるじゃないですか。
9回の裏、まだ試合終わってないのに泣いてる高校球児。あれ大嫌いなんですよ。

まだ試合終わってねーのに何負けた気になってんだよ。泣いてる暇あったら相手の配球読めよ、って思うんです。
だからすごく行きたくなかったけど、でも行かなきゃ仕方ない。


店員さんは凄く良くしてくれて、普通に新しいスーツ選んでる気分になりましたが
ふと、ああこれ喪服なんだよな

って、切なくなる瞬間がきました。


無事選び終えて、そっから数日、数週間と経ち
その間に僕はまた韓国へと旅立ち、容態は家族からのラインで知る程度でした。

もちろん韓国に戻る前に、何度か行ける限りお見舞いに行きましたが
やはり元気で、余命宣告もいつの間にか無くなってて

祖父のいる日常から、「祖父のお見舞いに病院に通う」という家族の中での新たな日常が出来ていました。




そんな日常が崩れたのが2019年2月13日。12時47分
いつも通り僕はダンスレッスンに向かおうと、最寄りのバス停に到着したときできた。


母からLINEで電話がきました。
韓国にいて、母からLINEで電話がくるのは、初めてでした。



「さっき病院から電話があって、ちちが呼びかけに応じないみたい。〇〇ちゃん(祖母)はもう病院にいて、私も仕事切り上げて今病院に向かってるところ」



正直この電話を受けて、動揺はしなかったし、衝撃も受けなかったし、心のどこかで
とか言ってまた持ち堪えてくれるだろう、とすら思ってました。



でも、何だか嫌な予感もしてました。



いつもそうだろって言われたらそこまでなんですけど、前日、夜、ひとりでビール飲みながら、急激に日本に行きたくなったんですよ。

あー家族元気かな。ってか料理してえなあ。日本行きてえなあって。


で、そんなこと考えてたからか、夢に家族が出てきて。



そんな中迎えた2月13日。そしてあの電話。
僕はすぐ、関係者の方々に連絡をして、わがままを通してもらって
19:30金浦国際空港発、21:45羽田着の飛行機を手配してもらいました。


時間は13時半。まだ十分に時間はありますが、急いで準備して、15時20分に空港に到着しました。
目的は飛行機の変更。一刻も早く帰りたい。病院に行きたい。


で、ダメ元でお姉さんに聞いてみたら、16:20の飛行機が席が1つだけ空いていました。
1番前の席だけどいいですか?って1番前が脚伸ばせて1番最高だっつうの。




あ、ちなみに変更手数料で13000円かかりますと。あたりめえだそんなんいくらでもくれてやる。


こうして無事16:20発の飛行機に乗ることが出来て、なんだかんだで家に着いたのは20時過ぎ。
急いで病院に向かって、20時半前には到着。





病室に向かうと家族みんないました。
久しぶりに会う母の姉夫婦。見たことない顔してる祖母。今にも泣きそうな母。



ちょっと居づらさを感じるような雰囲気でした。



肝心の祖父は、寝ていました。




実は昼間連絡を受けてから、祖母からラインで動画が送られてきました。

そこには呼びかけに応じなかったはずなのに、祖母と会話をしている祖父の姿がありました。

大丈夫?
苦しくない?


いや大丈夫じゃねえし、苦しいに決まってんだろと思わずツッコんでしまいましたが
祖父は消えそうな声で、でも確かにみんなに伝える意思を持って
ただ一言、”うん”と答えていました。


そんな中、遅くなってしまった自分のために母は祖父を起こそうとしてくれました。

でも、母がいくら声をかけても起きず、その様子を見かねた僕は
「疲れてるんだろうし、無理に起こさなくていいよ」と言いました。

続けて
「明日は朝9時から面会できるんだし、朝イチで来たらきっと目も覚めてるでしょう」
と言い、僕たちは病院を後にしました。

個室だったので、祖母は付き添いとして部屋に泊まることに。


もう21時を過ぎていたので、足早に病院を後にして、家の近くのサイゼリヤで食事をとることにしました。
セルフの水を取りに行って、みんなでメニュー見ながら、急に病院行くことになるかもしれないから、ビールは2杯までにしようね、なんて母の冗談も飛び出しながら
今日は深く考えず、腹いっぱい食って寝よう、そう思っていました。



その瞬間、母の携帯が鳴りました。





この時間、このタイミング、母の携帯が鳴った。





家族全員の視線が母に集まります。




母は電話に出ると
「はい…はい…・・・・・はい」


息する間もなく見つめて聞き耳を立てる僕たち。



「はい…わかりました。すぐ行きます」



この一言で全員が一斉に席を立ち上着を着ました。


店員さんに、何も注文せずに申し訳ない、必ずまた来ます
と伝え、急いで家の駐車場に向かって、車を走らせます。




僕の運転で、伯母夫婦を乗せて病院に行く道中、誰一人言葉は発しません。

そして、21:20頃、病院に着いて急いで病室へ。


そこにはドラマでしか見たことない、脈拍測るやつ。もう20~30とかだったかな。
祖父は寝てました。いや、昏睡っていうのかな。
苦しんだりする様子は全くありませんでした。

ピロン、ピロン、ピロン、ピロンと鳴り響く室内。

力の限り、ちち!ちち!と叫ぶ祖母。


そんな光景が広がっていました。


到着するやいなや娘2人もちち!ちち!と呼び続け、どうか1分でも、1秒でも良いから目を開けてくれ、そんな想いを伝え続けます。



その姿を見て、ふと我に返り、僕の感情が、想像していた物と違うことに気づきました。




人が死ぬとき、ましてや大好きな家族が死ぬとき、僕は泣きながら叫んで、死ぬな!死ぬな!そう願い続けると思っていました。






でも、今はどうだ?
そんな感情よりも、今までの楽しかった思い出、嫌だった思い出、そんなことを思い出すことよりも
ただただ、早くこの時間が終わってほしいと思っていました。




もうこんな辛い場面は見たくないし、本人は苦しんで無いとは言え、心臓の動きはもうほぼ惰性で動いているだけだし。



早く終われ、早く終われ。
もう頑張った。十分すぎるほど頑張ったから
早く楽になってほしい。


そう思っていました。




そして、病院に到着してから約30分。



2019年2月13日(水)
21:49

祖父は永眠しました。
87歳でした。




お医者さんが来て、死亡を確認し
そのあと程なくして、看護師さん2人がかりで体をキレイにしてもらって
あっという間に葬儀屋さんが遺体を預かりに来て

23時頃に、帰路につきました。


帰り道、僕らはセブンイレブンに寄り、食べてなかった夜ご飯を買って、お酒を大量に買い込んで、帰宅。

いつもと同じ、祖父のいない食卓。
いつもと違うことと言えば、凌が久しぶりに日本に帰ってきてることくらい。
いつもと同じビールを飲んで、いつもなら有り得ないけど、コンビニで買ったものだけで夜ご飯を済ませて。


その日は2時ぐらいまで、みんなで飲んでました。


しんみりすることなんて1ミリも無く
セブンのお惣菜うっま!!!!てか富田のこの二郎系のラーメン何これ超うめえじゃん!!!

あー!!久しぶりに飲むストロング酎ハイうめー!!!!!


みたいなことをやってました。
そこには確実に、いつもの美味しい物食べて酒飲んで、みんなで笑い合ってる田中家がありました。


僕はそんな田中家が大好きですし、そんな田中家を築いてくれた祖父が大好きです。




2月の18日、19日に葬儀を済ませて
19日、告別式を終えて、再び家族大集合で(って言っても6人)、今度はちゃんと、居酒屋に飲みに行きました。


そこでだって、誰一人、感傷にふける人もいなければ、涙を流すものもいなくて
ただただ楽しく飲んで食べて
2軒目カラオケ行って、ばあちゃんが想い出の歌を歌ってくれたり、母と伯母と祖母3人でキャンディーズ歌ったり
とにかく楽しいまま、すべてが終わると思ってました。


伯母夫婦は自宅に帰り、我々も帰宅して、
精進落としの際に祖父のために用意されていた食事を食べちゃおうってことで
飲み直しがてら、それを食べることにしました。



皆がグラスを持って、もう、献杯じゃなくて乾杯でいいよねってことで乾杯をした瞬間。



今まで我慢してた訳でも、無理をしていた訳でも無いのに
ダムが崩れたかのように涙が出てきました。



僕より辛い人がいるのに、なんなら家族を残して逝ってしまった祖父が一番心残りなはずなのに

なんで俺泣いてるんだよ、俺が泣くところじゃねえだろ、むしろ芸人が家族が死んでシンプルに悲しんでちゃダメだろ笑いにしてけよとか考えてたらもう本当に止まらなくなって。



でも周りを見たらみんなも泣いてて、祖母は声にならないくらい、泣いていました。


そりゃそうだよな。死んだほうが楽になれるし本人のためだろとか、そんなことある訳無いよな。




もう一生顔は見れないし、もう一生声は聴けないし、もう一生うまいうまいも、ベーコンエピも食べられない。




馬鹿だな俺。なんで今になって気付くんだろ。
もっと考えれば最初から分かってたことだろ。




もう、祖父には会えません。

次会えるのは、お墓に骨を入れる納骨式の時。
それが終わっちゃったら、これからはお墓参りに銚子まで行って、そうしないと会えない。


でも良いんです。
じいちゃんは最後に俺に
人のために生きること、自分の幸せより、家族の幸せを大切にすること
残された人を目が腫れるほど泣かせるくらい、愛されること
男なら喪服もかっこよく着こなすべきってこと
家で作るレモンサワーはどんどん濃くなって、家飲みなのに記憶をなくすこと
一生懸命生きること



ほかにも数えきれない程、たくさんのことを教えてくれました。



生きてる間もいろんなこと教えてくれて
死んでからも教えてくれて

僕はああいう人間になりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやる
と、胸に誓いました。



こんなこと書いて、何の意味があるのかわからないですけど
せっかくこういう仕事をして、少なくても読んでくれてる人がいるのであれば
僕は1人でも多くの人に、自分の自慢の祖父のことを知ってもらいたくて
今回このような記事を執筆するにいたりました。


こんな長文、乱文、駄文、最後までご覧いただきまして、誠にありがとうございました。


次からはまたいつも通りな感じでやっていきますんで
どうぞよろしくお願いいたします。笑


2019.3.1 ブルーレディ 田中凌

ここでしか見られない裏話や、現地でアイドルをやっている僕なりの韓国語必勝法、限定公開自撮り、限定公開レシピなど、とにかく何でもやっていきます!