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児童の心をつかまなければ、指導(教育)は成り立たない。

 「教育の究極は、感化・影響である。」
とは、私の師の言葉です。
 
教師は、知識を伝達するだけではなく、児童生徒の人間性を高める指導をするべきであることは申し上げるまでもないことですが、そのためには、自身の徳を高める必要がある、ということを常にかみしめながら現場にたっています。
 自分にとって、知識や技術を高めることよりも困難なことではありますが、この教員としての姿勢は、「年少者日本語教育」でも基本となることがわかりました。

1. 「特別支援学級」?

 国外からきた児童生徒は、いきなり言葉もわからない、環境も習慣も違う場所に放り込まれ、本当に戸惑っていることでしょう。小学生の、特に低学年の児童の中には、それだけで落ち着きをなくし、挙動が尋常でなくなる子どももいます。そのため、「発達障害(自閉症・ADHD)か?」と勘違いしてしまい、特別支援学級へ送り込もうとする担任の先生もいらっしゃいます。
 あるいは、日常会話は問題がないのに、授業についていけない児童を、これまた「発達障害(知能的遅れ)!」と断定して、同じく特別支援学級に任せようとする教員もいらっしゃいます。
 場合によっては、「日本語がわからない」=「授業にはついてこれない」と判断して、保護者に「特別支援学級」を勧める学校もあることが、新聞でも報道されていました(註)。
 「特別支援学級」は、「特別に支援が必要な児童」に対して「個別・専門的な教育をする場」です。この「専門」には「日本語教育」は入りません。教室でもてあますから、との心理的負担から「特別支援学級」に安易に児童生徒を任せるべきではないのです。

 とはいえ、日本語で日常会話もできない児童生徒を受け入れる先生方の負担は想像に難くありません。

2. 「心がつながる」こと  

 日本語がわからない児童ばかりのクラスを担当していた時、「〇〇語ができるの?」「日本語が分からない子にどうやって意思疎通をするの?」とよく聞かれたものです。
 私の経験では、〇〇語ができる必要はないと考えていますし、いわゆる翻訳機器もほとんど使用しませんでした。
 必要なのは、曖昧な表現で恐縮ですが、やはり「心がつながること」だと感じています。これは、言葉や図表等目に見える形で表すことができないのですが、「あ!この子と(心が)つながった!」と感じ取る瞬間があるのです。それができれば、あとは容易です。

 児童生徒との日常生活で最低限必要な意思疎通は、ゼスチャーやイラストで網羅できるものですし、授業も少し工夫を加えることで参加が可能になります。

 そもそも母語以外の言葉を習得する必要性を感じない、あるいは拒否する児童もいます。

 しかし、「心がつながる」ことで、「相手の感じていること、思っていることを理解したい」との気持ちが自然にわいてくるものです。そうしたら、しめたもので、積極的に日本語を知ろうとし、話そうとし始めます。もちろん、私も相手の母語を知りたくなって、実際、〇〇語の勉強はしたことはありませんが、いくつかの言語について挨拶や身の回りの言葉を理解できるようになりました。そして、その知識が、次に転校してくる児童生徒と「心をつながる」ためのツールのひとつになりました。

 そして、この「心がつながること」は、我々教員ならば、誰しも、そのコツを知っているものです。
 だから、特別な教育、つまり日本語教育に関する教育をうけていなかったとしても、自身の教員としての経験を、知識を総動員させれば、対応することは可能である、と断言したいのです。少なくとも、必要以上に不安に感じたり、他(「特別支援学級」?)に責任を転嫁する必要はないのです。

 とはいえ、日本語教育、特に「年少者に対する日本語教育」に関する基本は知っている必要はあります。今後、その実践例をnoteに掲載していきますので、是非、参考にしてください。

註:「外国籍の小中生、「支援学級」頼み 日本語教育体制に穴」(2021年5月9日 1日付「日本経済新聞」)https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG10A090Q1A310C2000000/?type=my#RQAUAgAANzU2OTY


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