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【連載小説】「こかげ」第9回(全22回)

「あっ、今日からの田中さん。一緒に食べていいですか」
 従食のお膳を両手に持って近づいてきたのは同世代に見える女性だった。どうぞどうぞ、と答える。


「私も田中っていうんです。だから下の名前で呼んでいいですか」
 座りながら言った相手がはにかんだ。
「あっ。それ、主任にも聞きました。だから早速、主任には下の名前で呼ばれてます」
「そうだったんですね。早紀さんでしたよね。私のことも良かったら下の名前で呼んでください。夏実っていいます」
「夏実さん」
 口に出してみると、不思議なほど親しみが湧いて気持ちが落ち着いた。胃袋をつつかれるような緊張がほどけていく。


「介護のことは本で勉強したくらいで、経験はゼロなんです。いろいろ教えてください」
 私が縮こまると、いやいや、と相手が手を振った。
「私もまだ1年なんですよお。介護はここが初めてで、ひよっこです」
「1年なんて、私から見たらベテランですよ。私なんて続くかどうかも分からないのに」
 言ってしまってから、あっ、と口元を手で隠すと、夏実さんが歯並びの良い口を全開にして笑顔を見せた。


「だーいじょうぶ。私も一緒。今だって、続くかどうか自信がないです」
「へえーっ」
「でも……」
 言いかけて、夏実さんはお椀を手にすると味噌汁をすすった。
「ああ、今日も味が薄い。っていうか、ダシが足りないんだろうなあ。ああ、ごめんなさい」
 いえいえ、と笑いながら、その表情の愛くるしさに見とれてしまう。夏実さんは、もぎたてのイチゴを連想させるような可愛らしい人だった。


「でもね、主任がいい人だから、私はきっと続けられると思ってます。いや、他の人もみんないい人なんですけどね、主任は別格です」
「へえ……」
 別格、という言葉を思い浮かべてみたら、それは金塗りだった。別格のいい人って、どれほどいい人なんだろう。何が、どんなふうに、普通のいい人と違うんだろう。


「だから、主任のファンって多いんですよ。あの人がいなくなったら、みんな辞めちゃうんじゃないかな」
「そこまで……」
 眉をひそめて考えてみる。これって、人たらしってこと?
「どうしたんですか」
「あっ、いえ」
「まあ、主任が入って来るより前からいる人たちには、なんかいろいろとごちゃごちゃ言われてるみたいですけど、それって言ってる人たちのひがみだと思うんですよね。まあ、主任が気にしてないから私はいいんですけど」


 なるほど……。彼の指導を受けている人には人気があるということか。彼より前からいる人たちにとっては目ざわりな存在。仕事ができて出世が早ければ、一部の人に妬まれても仕方がないのかもしれない。


「主任てね、生活者にも人気があるんですよ」
 夏実さんが箸の先をくわえながら言った。
「佐倉さんなんて入所したばっかりの時はどうなるかと思ったんですけど、今じゃすっかり落ち着いて」
 えっ?
「佐倉さんて」
「まだ会ってないですかね。3階の女性なんですけど」
「あの方、職員じゃないんですか」
「ああ、職員とよく間違えられるんですよね。あの方は生活者です」
「そうなんだ……」


 一緒にがんばろうね、と彼女は確かに言った。その立ち振る舞いも話し方も、ベテランの介護職員そのものだった。お年寄りという言葉からはかけ離れた若々しさがあり、新人の自分だけでなくすべての生活者までも見守るような寛容さがあった。


「主任て、彼女いるのかなあ」
 テーブルに肘をつき、夏実さんがまた箸をくわえた。

           *

 それじゃあまた2階からね、と直がテーブルの上で両手を組んだ。
「紹介した時と同じ順番で行こうか」
 面談室のテーブルには直が抱えてきた入居者の写真がずらりと並んでいる。直と私は直角の位置に座り、テーブルを挟んでいた。


「ああ、先に言っとくけど、俺は疾患とか薬とかの話は最後にするから」
「はい」
「先に、早紀に言った」
 サキにサキに、と真顔で言ってから、ぶははーっ、と直は一人で笑い声を上げた。そんなダジャレよりも、早紀と呼び捨てにされたようで私は耳が熱くなる。


「さて」
 直が手にした写真は最初に紹介してもらった男性だった。
「迫慎一郎さん。迫さんはね、分かると思うけど江戸っ子なの。ここに来る前は普通のしゃべり方だったらしいけど、いわゆる痴呆になってからどんどん今の感じにエスカレートしたんだって。柴又の生まれだってことで、柴又にまつわる映画を相当意識してたらしい」
 柴又生まれ、とメモを取る。


「仕事はもともと銭湯を経営してて番頭とかやってたみたいだけど、銭湯を閉めてからはタクシー運転手とか部品工場の作業員とかいろんなことやってたんだって。金儲けのことはしょっちゅう考えてる」
 面白いよ迫さんは、と直は思い出し笑いをした。


「誤解があったら嫌だから言うけど、俺が言う面白いって、いわゆる痴呆をバカにしてるわけじゃないよ」
「うん、分かってる」
「ありがとう。なんていうか、いわゆる痴呆であっても、いろいろ忘れてしまったり分からなくなることはたくさんあるかもしれないけど、その人の根っこが枯れてしまうわけじゃないからさ。人柄や倫理観、人生そのものを知れることが面白いの」
「うん」


 ありがとう、と重ねて言ってから、直は迫さんの疾患のこと、飲んでいる薬のこと、身体の特徴、介助する時の注意点を話し、最後に家族関係のことを少し話した。


「ここからは自分で迫さんと関わって相手を知っていった方が俺はいいと思う。もちろん、俺にききたければいつでもきいてくれて構わないよ」
「はい」
「早紀さんは、その力を持ってると思うから」
「直……、三条さんは今、何も見ないで話してるけど、ぜんぶ頭に入ってるの」
「そうだよ」
 すごい……。ふうう、と私は息をもらした。


「次は、田畑先生ね。田畑清さん。さっきもちらっと言ったけど、小学校の校長先生だったのね。毎年さ、正月にご家族が先生あての年賀状を持ってくるんだけど、昔の教え子からだったりする。なんか俺、泣きそうになるんだよね。本当にいい先生だったんだろうなと思って」


「今も、でしょ?」
 私の言葉に直が軽く目を見開いた。
「そうだよ。先生は、今も先生だ。そして俺たちは教え子。大切な教え子の名前を忘れないように、先生はいつも名前を書き留める。書いても忘れるけど、また書き留める。何度書き留めようと、先生にとっては一度目だ。同じ人にまた名前をたずねるような失礼のないように、先生は名前を書き留め続けてるんだよ」


 その姿を思い浮かべている直の横顔が優しい。主任て彼女いるのかなあ、という夏実さんの言葉が無意識によみがえった。確かに、こんな表情を見てしまったら、この人に愛された人は幸せだろうと女性なら誰でも想像するに違いなかった。


「じゃあどうして先生が2階にいるのか、って話」
 田畑先生の写真を手に取った直は、椅子にもたれた。
「もともと先生は3階にいたんだけど、いわゆる問題行動があって2階に移動したの」


「いわゆる」
「そう。先生はね、ほとんど毎日“出勤”するんだよ。それでフロアに出ると他の生活者たちに“指導”を始めちゃうの。まあ、俺らが教え子なら、生活者は教員てとこかな。別に何か害のあること、例えば叩くとか怒鳴るとか、そういうことはしないんだけど、ちょっと上からものを言っちゃうんだよね。それで3階の生活者たちから苦情が出てさ、俺にしてみれば田畑先生にとっては当たり前のことだけどね。校長先生なんだから」
 当たり前のこと、とメモする。


「いわゆる問題行動なんてさ、まわりから見てどうのこうのって話だよ。みんな自分がいわゆる痴呆になれば分かる話。こんな言葉、何年後とかには消滅してるといいよね」


 それから直は、迫さんの時と同じように疾患の説明から家族関係の話までをひと通りした。2階の生活者たちのこと、出生地から人生歴、好きな歌手から食べ物まで、なんでも知っていた。


「次は3階ね」
 一度広げた写真を集めてから、別の束をテーブルに置く。
「最初に、佐倉さんの話からしてもいいかな」
 はい、と言ってメモ帳をめくる。

「佐倉さんは俺の師匠」
 写真に触れた直の瞳に力が宿った。

「あの方は田畑先生と逆で、はじめは2階にいたの。ここに来た時は精神科の薬漬けでね、ほとんどぼおっとして過ごしてる方だった。よだれをたらしてウトウトしてることも多かった。たまにトイレって言ったかな」
 今日の姿からは想像がつかなかった。


「しばらくしてドクターが薬を減らしたんだよね。そしたらみるみる元気になって、今の状態に近くなった。あの方はね、いわゆる痴呆になるまでは介護施設の主任だったの」
 あ、と思い当たる。あの雰囲気はそういうことだったのか。


「あの方を最も師匠と呼ぶべきところは、その仕事ぶりがさり気ないところだった。他の生活者に対してお世話みたいなことはするんだけど、決してやりすぎない。あくまで親切の範疇なんだよ。主任だったけど今は違うことをなんとなく分かっていて、自分がやっていい範囲のことしかやらない。俺ね、あれほんとすげえなって思ったの。人を支援してきたプロってこういう人なんだなって。いわゆる痴呆であっても、その人が大切にしてきたことは残ってる。だから俺、分からないこととか悩むことがあった時は、いつもあの方に相談してきた。疑ってたわけじゃないけど、本当に主任だったんだなって思うことばっかりだった」


 これってさ、と直が座り直した。
「どういうことだか分かる? 今の状態でも、家にいる時はいわゆる問題行動と捉えられていたってことだよ。その人が大切にしてきたことを今もなお大切にしようとするほど、まわりの人には問題に見えてる。それを薬でコントロールされてさ。人間て怖いよね」
 刹那、直が遠い目をした。いろんな場面がよみがえっていたに違いない。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。