見出し画像

【連載小説】「こかげ」第17回(全22回)

 56才男性。要介護1。脳梗塞後遺症で軽度の左片麻痺あり。老人保健施設でリハビリ後、現在は杖歩行。2週間前に退所して自宅に戻るも、直後にキーパーソンだった妻が離婚届を置いて家を出て行ったことから、別居していた長男夫婦が急きょ世話をすることになった。先の生活については全くの白紙であったが、長男夫婦が介護に消極的であることと、本人がショートステイやデイサービスの利用を拒んで施設入居を希望したことから、当ホームへの申し込みとなる。


「奥さん、ひどいね」
 基本情報にざっと目を通した乙村さんが椅子に反り返る。
「うん……」
 30年間も一緒にいて独り占めしておきながら、どうして今になって、と私も考える。
「この人、介護の仕事してたんだね。詳しいことは書いてないけど」
「うん……」
 ちらりと乙村さんが私を見る。
「聞いてる?」
「うん……」


 もうっ、と怒ったような声を出して、乙村さんは再びファイルに目を落とす。私は自分の手元をじっと見つめていた。
「ねえ、乙村さん」
「なに?」
 もしも、と口にしてから視線がさまよう。言おうとした言葉は確かにあるのに、唇で消えてしまう。


「もしも?」
「うん……」
 どうしたの、変だよ、と乙村さんがマスクの下で笑った。そうだ。
「乙村さんには、会いたい人はいる?」
「会いたい人?」
「会いたかったのに、長い間ずっと会えなかった人でもいい」
「会いたかったのに会えなかった人……」


 急にきかれてもね、と言いながら乙村さんは腕組みをした。
「そうだな。昔だったら、女優の西野ひかるかな。『デパート物語』っていうドラマがあって、それがきっかけでデパートに就職したから。あとは、死んだおばあちゃん」
 死んだおばあちゃん……。


「乙村さん。もしおばあちゃんに会えたとして、そのおばあちゃんが乙村さんの記憶にあるおばあちゃんとはまったくの別人になってしまっていたら、どうする」
「どうするって」
 そんなの分からないよ、と今度は頭の後ろで両手を組むと、乙村さんは天井を見上げた。うーん、と言って沈黙した後、向き直った乙村さんは私と視線を合わせた。


「そんなのあり得ない」
「え?」
「おばあちゃんは、おばあちゃんだよ。変わったりしない」
「変わったりしない?」
「うん。変わったりしない。変わったように見えても、実際には変わっていない」
「実際には、変わっていない……」


確かにそうかもしれない。30年の時が大河のように流れた。私はすっかり顔がしわしわになって、身体も衰えてきている。白髪を染めるのに懸命だし、老眼鏡も必要になっているみたい。それでも、私は何ひとつ変わっていない。変わることなど、できなかった。


「乙村さん」
「ん?」
「おばあちゃんに会えたら、最初にどんな言葉をかける?」
 うーん、そうだなあ、と身体を横に傾けながら乙村さんが考える。
「久しぶり、って言うかな」
「久しぶり」
「うん。元気だった? って言う。それから、がんばって生きてきたよ、って報告する」
「がんばって、生きて……」


 目頭が熱くなる。確かに、がんばって生きてきた。介護の仕事に出逢い、介護の仕事一筋に生きてきた。あれから時代は移ろい、介護保険制度が始まって措置の時代から契約の時代に変わった。いわゆる痴呆は認知症と名称が改まった。それでも私は、いわゆる認知症と言った。新しいサービスが生まれ、制度が変わるたびに翻弄された。私は業界には大した貢献はできなかったけれど、その時いる場所で、目の前のお年寄りと真剣に向き合ってきた。それが自分の使命だと信じてやってきた。


「田中さん」
 乙村さんが静かに膝を揃えた。
「田中さんは、いつも何かに耐えている。そんな感じがしてた」
「耐えている?」
「うん。どこか凍えているような、淋しそうな感じ」
 そんなことはない、と言えなかった。


「田中さんは、もっとわがままに生きて良かったんだと思う。でもできなかった。それが田中さんだから」
 やりたいことなどなかった私がこの30年間、ひとつの仕事を貫いてこられた。結婚が女の幸せだと考える世代の親に逆らい、ひとりで生きてきた。じゅうぶんわがままだったと自分では思う。


「もう、自由になっていいんじゃないかな。どうしてだか分からないけど、田中さんにはそう思うの。そんなに凍えていないで、もっとひだまりを求めていいんだよ」
 そろそろ帰ろうか、と乙村さんが立ち上がった。
「乙村さん」
 なあに、と乙村さんが振り返る。
「ありがとう」
 声がふるえた。涙がこぼれそうで、それしか言えなかった。

           *

 倉田さんのいた部屋に、新しい入居者が入る日を迎えた。
    遅番で出勤して申し送りの記録を読むと、新しい入居者はすでに入居して居室にいるようだった。もしかしたら同姓同名の別人かもしれないと、今さらのように考えたりする。

「おつかれさまです」
 ケアステーションに入ってきたのはケアマネジャーだった。おつかれさまです、と返してから、なんとなくマスクの口元を整える。緊張していた。
「田中さん。今日入居の三条さん、もういらしているのでよろしくお願いします」
「はっ、はい」


「さっき、ひと通り荷物を運び込んで、息子さんはいったん帰られました。お昼を済ませてからまた残りの荷物を持って来られるそうです。ご本人にはもうすぐ昼食だってお伝えしてあるんですけど、ちょっとお疲れになったみたいで横になられてました。時間になったらお声をかけていいと思います」
「はい、分かりました」


 ケアマネジャーが出て行くと、入れ替わりで日勤の竹原さんが入ってきた。ごつい体格の男性で、入居者に乱暴だと思わせてしまう介助をする職員だった。
「おつかれさまでーす」
 けだるそうに竹原さんが首の後ろを掻く。おつかれさまです、と返して私は記録に目を通した。


「新入居の方、どうですか」
 たずねた私に、いやあ、と竹原さんが腰のあたりを掻く。
「自分まだ挨拶してないんすよ。排泄とか、今やっとひと通り終わったところで。もうそろそろ昼食の誘導できますよ」
「分かりました。じゃあ私、お声をかけてきますね」
「お願いしまーす」
 挨拶をする気などないと分かる。これからここで生活を始める方に挨拶も自己紹介もしないなんて。


「そろそろお昼ごはんですよ」
 ひとつひとつ、居室をまわって声をかける。美恵子さん、源三さん、並木さん、静子さん、そして。
「三条、直さん」
 このドアを開けるのに、こんなにも肩に力が入ったことはない。開けたら向こうには彼がいる。本当だろうか?
「行くよ」
 息を吸い込む。


「コンコンコン、失礼します」
 3回ノックをして部屋に入る。何度も出入りしてきた部屋なのに、まるで初めて入るみたいな緊張感があった。
「三条さん……」
 ケアマネジャーが言っていた通り、彼はドア側を頭にしてベッドに横たわっていた。そっと足を踏み入れ、顔を合わせる。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。