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【連載小説】「こかげ」第2回(全22回)

 介護の仕事を始めてもう30年になる。今の施設では、勤めて2年が経とうとしていた。

「コンコンコン、失礼します」
 居室のドアを3回ノックする時に、コンコンコン、と口でも言うのが私の癖だ。今となっては個室が主流だけれど、私がこの仕事を始めた頃はほとんどの施設が集団部屋で仕切りがカーテンだった。カーテンだとノックができないから、代わりに口で言う。それを30年間続けてきて、個室になった今でもつい言ってしまうのだった。


「ああ、あなたが来てくれた」
 居室に一歩入ると、トイレの前で車椅子に座った美恵子さんが私を見上げた。
「もうすぐカラオケが始まるので、お声をかけに来たんですよ」
「そうなのね。その前にちょっと、トイレいいかしら」
「もちろんですよ」


 車椅子を細い腕で少しずつ漕ぎながら、美恵子さんがトイレに入っていく。後に続いた私は美恵子さんが壁の手すりにつかまって立ち上がるのを待つ。
「おズボンを失礼しますね」
 声をかけてズボンのウエストに触れ、するりと下げる。
「下着も失礼します」
 パンツも下げて両手で美恵子さんの腰を包む。小刻みに方向転換した美恵子さんの腰を便座に着地させ、下腹部にひざ掛けをふわりとかける。


「ああ、良かった。おしっこを我慢していたの」
「いつでも呼んでいいんですよ」
「そんなこと悪くてできないわ。それに、誰が来てくれるか分からないし」
 そう。いつもそう言うのが美恵子さんだった。私にとっては仕事で当たり前のことでも、される方にしてみれば排泄の手伝いなんて気安く頼めるものではない。まして。
「すごく嫌な顔をする人がいるもの。乱暴だし」
 こんなふうに言わせてしまう職員がいる。


「そうなんですか……」
 誰なのかはだいたい見当がつく。それでも、こんな返事しかできなかった。
「あなたが来てくれて良かったわ。ちょっと待っててね。ごめんね」
「大丈夫ですよ」


 トイレの外に出て音だけをうかがう。排尿、そしてトイレットペーパーを巻き取っているのが分かる。本当は、美恵子さんは一人でできる。立位が不安定ではあるけれど、ズボンを下げるのも片手でできる。それをしないのは、一度だけバランスを崩して転んだことがあるからだった。それ以来、美恵子さんはトイレのたびに職員を呼ばなければならなくなった。呼ばずに一人で行くと後で怒られる。呼んで嫌な顔をされるのも、呼ばずに怒られるのも、どちらも悲しい。美恵子さんにとって尿意が起こるのは恐ろしいことだった。


「終わりました」
「はぁい」
 再びトイレに入ると、両手で手すりにつかまった美恵子さんが待っていた。私が腰に手を添えるだけで、立ってもよいのだと美恵子さんは分かる。よいしょ、とふたりで声を合わせると、立ち上がった美恵子さんのパンツとズボンを素早く上げた。

「ああ、ありがとう。すっきりした」
 車椅子に腰を下ろすと、美恵子さんの顔が晴れ晴れとしていた。
「毎日あなたがいてくれたらいいのに」
「それはそれで鬱陶しいですよ」
 顔を見合わせて笑い、お待ちしていますね、と言い残して居室を出る。


「さて、次は」
 源三さん。
「コンコンコン、失礼します」
 一歩入るだけで空気が変わる。ぬるくてざらついた、不健康な空気。
「昼間くらいカーテン開けましょうよ」
 いつものセリフを言いながら薄暗い空間を進む。黄ばんだ上下の肌着のまま、源三さんはいつものようにベッドに横になっていた。


「源三さん」
 一応、呼んでみる。
「まったく……」
 源三さんの視線はテレビ画面に注がれている。これも、いつものこと。
「これからカラオケがありますから、良かったらどうぞ」
 参加しないと分かっていても声をかける。


    だいたいこの時間の源三さんはいつもビデオを観ている。すりきれるほど繰り返し観たに違いないビデオテープが戸棚に並んでいることは、職員なら誰でも知っている。
「今日はこれにしたんですね。『美人妻の濡れ濡れ情事』って、久しぶりじゃないです?」


 他にも『ハレンチ熟女の昼下がり』『官能おしゃぶり巨乳』『発情おかみの誘惑通り』などのタイトルが戸棚を開けるとずらりと整列し、中でも源三さんは和服を着た女性を好んで観ているようだった。


 言うまでもなく、源三さんの入浴をはじめとする身体介助は男性スタッフに限られる。源三さんにとってはまんざらでもないらしく、女性の好みやお勧めのビデオについて語り合うのは男性スタッフの方が盛り上がるという。
「それに、近頃の姉ちゃんたちは細すぎてだめだ」
 色気がなくてそそられない、という意味だ。仕事をするには有難いけれど、いずれにしても女性スタッフがあまり近寄りたがらないのが源三さんだった。


「おっ」
 思わず声をもらしたのは私。画面の中で女性の上半身があらわになっている。見ると、源三さんは喘ぐ女性を表情ひとつ変えずに眺めている。
「大したことねえな」
 呟いて、源三さんが欠伸をした。これからいよいよ盛り上がるところに違いないのに、その冷めた視線に私はげらげらと笑った。


「何が違うんですか」
「何って、全体的にな」
「ふうん。それなら試しに、カラオケに参加してみてくださいよ。『みちのくふたり旅』とか『さざんかの窓』あたりは、けっこうきわどいビデオなんですよ」
「ほう。そりゃ、行ってみるか」
「はい。待ってますね」
 居室を出ながら振り返ると、源三さんはまだ姿勢を変えずに画面を見ていた。


「コンコンコン、失礼します」
 源三さんのお隣は並木さん。
「おお、ちょうど良かった」
 私の顔を見るなり手招きをした並木さんは、立ち上がって本棚から一冊取り出した。
「カラオケのお誘いに来たんですよ」
「いやいや、それよりもね、この間あなたに話したユングの本が見つかったんでね。それを見せたいと思っていたんだよ」


 グレーのやわらかい髪を横に流した細面の紳士。仕立ての良さそうなポロシャツに紺色のベストを重ねた上品な佇まいで、今日も彼は心理学の本を読んでいた。


「あなたのおかげで改めて読み返したけれど、今でもやっぱり勉強になるね」
「シンクロニシティ。共時性。意味のある偶然の一致。あれから私も調べてみて、勉強になりましたよ」
「おおーっ。調べたのかい? それはいいことだね。何かに興味を持つというのは、人生がひとつ豊かになるということだよ」


 手にしていたユングの表紙を一度撫でてから、並木さんはそれを私に差し出した。私はあえて手を出さない。だって。
「これは見せるだけだからね。貸したりはしないんだ」
「はい。分かっています」
「うん。本というのは自分で買うべきだ」
「そうでしたね」
「あなたには言ってあったか」
「はい」
 ケチだと思われても嫌だからね、とふたりの声が揃う。あれっ、と顔を上げた並木さんと目を合わせると、私たちは同時に笑い声を上げた。


「もういいかげん、覚えましたよ。本に限らず研修も勉強会も、学びのために必要なものは自分のお金で手に入れるものだって」
「いやあ、まいったな。そんなに僕は何度も言っていたのか」
「それはもう、何度も。でもそのおかげで私、すごくためになっています」
 そうかそうか、と並木さんは額に手をやる。


「また分からないことでもなんでも、何かあったら私のところに来なさい」
「ありがとうございます。何が分からないのかが分からない時の方が多いですけれど」
「あなた!」
 ユングを本棚に戻すと、並木さんは両手で私の肩をつかんだ。


「素晴らしいね! 何が分からないのかが分からないなんて、それだけの可能性を秘めているということだよ!」
「ありがとうございます。ちなみに、今の私に分からないのは、どうしたら並木さんがカラオケに参加してくださるかということです」
 うわはははー、と今度は両手を自分の腰に当ててから、並木さんはしれっと言った。
「それは難題だね」


 並木さんの居室を出て、入浴に行っている静子さんの表札の前を通り、倉田さんのドアをノックする。
「コンコンコン、失礼します」
 返事はない。彼女の姿はベッドの上にあり、その瞳は天井に向けて開かれていた。


「倉田さん、起きましょうか。カラオケがありますよ」
 返事はない。
「お布団とりますね」
 倉田さんのからだの上で掛布団を滑らせ、足元に寄せる。ひとつひとつの動作ごとに言葉をかけながら両足に靴下を通し、からだを起こしてベッドの端に座ってもらう。


「靴を履きますよ」
支えがなければ倒れてしまう背中を抱えながら相手の顔を見る。倉田さんの視線はどこにも置かれていない。
「一度立ちますよ」
 向かい合って両脇に手を差し込み、立ち上がってもらう。彼女の両足にはほとんど力が入っていない。
「座りますよ」
 倉田さんのからだが車椅子におさまる。フットサポートを倒して足を乗せると、その膝に小花柄のひざ掛けをかけた。


「苦しくないですか」
 言いながら、視線を合わせようと上下左右に動いてみる。まるではじき合う磁石のように、私たちの視線はすれ違う。倉田さんは透視するみたいに私のからだの向こうを見ている。


「倉田さん」
 後ずさって、やや離れた場所から手を振ってみる。私たちは今、別の世界にいる。この境界を越えて、交われる場所が必ずある。もう少し、もう少し。一歩ずつ離れながら、手を振る。


「あっ」
 ピントが合った。倉田さんの瞳に光がさす。
「見えますか」
 微かに頷いた彼女の口角が上がる。少しずつ近づいてその腕に触れると、何かを言おうとするように彼女の唇がうっすらと開いた。


「何か言いたそうですね」
 言いたいことを言葉にできない歯がゆさを想像する。何も言わないことは、何も考えていないこととは違う。この方は考えているし、すべて分かっている。そう思う。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。