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【連載小説】「こかげ」第8回(全22回)

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 ぱきっとした下ろしたてのポロシャツが自分を余計にぎこちなくさせているような居心地の悪さだった。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
 言いながら笑いをこらえきれない直が、上下に視線を移して私の全身を眺めた。私は両脇をしめてそれぞれの手にペンとメモ帳を持ち、足を揃えて背すじを伸ばしていた。
「緊張しないなんて無理だよ」


 初出勤日の今日は、施設内での申し送りから始まった。申し送りの最後に自己紹介をして、そのあと介護課長のオリエンテーションがあり、施設内を案内してもらった。
「じゃあ行こうか」
 ここからは主任の直が指導してくれる。
「ここの生活者全員に紹介するよ」
 通用ドアを抜け、階段を直が先に上がる。


「新人の育成はぜんぶ俺に任されてるの。だから俺の好きなようにやらせてもらう。そのかわり、何かあればぜんぶ俺の責任」
「何それ、プレッシャーかけてるの?」
「そうじゃなくてね。今どこにある施設でも、新人を生活者に紹介するところから始めるって、ほとんどないと思うんだよね」
「ふうん」


「そっか、分かんないよね。たぶんそう。だいたい何時になったらオムツ交換して、それから食事介助して、そのあと入浴介助して、そしたらおやつ介助して、記録して、みたいに全部を業務みたいに教えてると思う。実際、俺が最初に就職した施設はそうだった」


「そうなんだ」
「うん。でも俺はそれじゃだめだと考えてる。そんなことしたら、新人はその流れを守ることが最優先の仕事だと思い込んでしまう。すべての仕事が作業になる」
 仕事が作業になってはいけない、とメモ帳に書き込む。階段を上がりながら文字がふるえる。


「俺らは人を支援している。それが作業になってしまうと、人ではなくマネキンと同じだ。そうならないように、俺は自分の信じたことをやる。ま、さっちゃんならすぐに理解できるよ」
 振り返って、直は階段の途中で立ち止まった。
「ここじゃあ、さっちゃんはまずいな。田中さん。ああ、田中さんはもう一人いるから、早紀さんだな」


 早紀さん。直にそう呼ばれるとくすぐったい。直が階段を上がり始める。
「まずは2階から行くね。もう介護課長から説明されたと思うけど、2階には重度の方たちがいる。重度っていってもいろいろあるけど、主には身体的に重度、寝たきりに近いとか、車椅子に乗って移動するとか、何らかの介助が必要、そういう方たちだね。あとはものごとの理解が難しいっていう意味の重度。あんまり言いたくないけど、世間的には痴呆ってやつだね。言いたくないから俺は、いわゆる、ってつけてる。いわゆる痴呆ってね。だから、いわゆる、って俺がつけたら本当は言いたくない言葉ってこと」


 いわゆるチホウ、とメモを取りながら階段を上がる。
「転ぶなよ」
 振り返った直が、すすっ、と笑った。


 2階の廊下に出るとすぐ隣にエレベーター、その先にフロアが広がっていた。間隔をあけて置かれたテーブルには、それぞれに数人のお年寄りがいる。テレビを観ながらお茶を飲んでいる人や、テーブルに伏せて寝ている人、テーブルを叩き続けている人もいる。ざっと見渡して、車椅子に座っている人が多かった。


「今日は火曜日だから一般浴の日。さっきオリエンテーションで聞いたかもしれないけど、曜日ごとに入浴形態が決まってる。今日の2階は入浴の方が少ないから、けっこう紹介できるかもね」
 まっすぐ伸びた廊下の突き当りで直は立ち止まった。


「ここの施設はぜんぶ4人部屋か2人部屋。2人部屋はそれぞれ両端の2部屋だね。この部屋にいるのは迫さんと田畑さん。ふたりとも男性だよ」
 部屋の入口にドアはなく、中はカーテンで仕切られている。一歩入った直が手前のカーテンに手をかけた。


「コンコンコン、失礼します」
「あいよ」
 中から渋い声が帰ってくると、直がカーテンを小さく開けた。
「迫さん。ちょいといいですかい」
 ベッドに寝転がって雑誌をめくっていた男性が身体を起こす。
「なんだい兄ちゃん。ついに俺に金を貸す気になったかい」
 ぶははーっ、と直が吹き出す。
「残念ながら違いますぜ。今日は新入りを紹介したかったもんで」
「おうおう。入りな」
 男性に手招きされ、私もカーテンの中に入る。


「あっ、あの、今日から新しく入りました、田中早紀です。どうぞよろしくお願いします」
 両手を揃えて頭を下げると、男性がぱちんと膝を叩いた。
「おうっ、こっちこそよろしくな。タナカのサキちゃん。俺に金を貸す気になったら来てくれな」
 ぶははーっ、と直が笑う。


「迫さん。いきなり金の話は新入りが驚きますぜ」
「大儲けして倍にして返すからな」
「その話はまた今度ゆっくり。ひとまず挨拶からで」
 おうっ、よろしくな、と老人が手のひらを見せた。
「よろしくお願いしやす」
 言いながらぺこりと頭を下げ、直と一緒にカーテンから出る。そのまま直は部屋の奥へ進むと、隣のカーテンに触れた。


「コンコンコン、失礼します」
「どうぞ」
 かすれた声が返ってくる。カーテンを細く開けた直が中を覗いた。
「田畑先生、新しい仲間を紹介したいんで、ちょっと入りますね」
「はいはい」


 直が指先で小さく手招きをして、私は一緒に入っていった。中では男性がベッドの端に座り、筆ペンとメモ帳を手にしているところだった。
「今日から入った田中さんです」
「たっ、田中早紀です。よろしくお願いします」
 私がお辞儀をすると、男性は筆ペンを持ち直した。
「タナカ、は田んぼの真ん中ね。サキって、どんな字かな」
 メモ帳に田中、と男性が書く。
「サは早い、キは糸へんに己です」
 ふむ、と言いながら男性が早紀、とメモを取った。


「こちらこそ、よろしくお願いします」
 男性が頭を下げる。直が言った。
「田畑先生はね、校長先生なんだよ」
「そうなんですか。いろいろと教えて頂くかと思います。よろしくお願いします」
 いやいや、こちらこそ、と男性が私を見る。気品のある笑顔だった。
「また後ほど」
 失礼しました、と会釈をした直と一緒に廊下に出る。私は肩で深呼吸をした。
「まだふたりだよ」
 すすっ、と直が笑い、私が背すじを伸ばす。


「ところで、どうして入る時にコンコンコン、て言うの」
「ああ、そこ? だって、カーテンだとノックできないじゃん。ノックしたいんだよね、俺は」
 ノック、コンコンコン、とメモを取る。
そこ重要? と笑ってから、直が言った。
「やっぱり早紀さんは俺の思った通りだ」
「思った通り?」
「うん。いい意味でね。ま、それは後で話すよ。それと、紹介した生活者のことも後で詳しく伝えるから。まずは顔を見て、その人の空気に触れてくれればいい。情報は後からでじゅうぶん」
 隣の部屋に行くよ、と直が歩きだす。


「ここから4人部屋ね。ここにいるのは、ほぼ寝たきりの女性たち。新藤さん、西川さん、川口さん、大原さん」
 部屋の入口に掲示された名札をそれぞれ指で追ってから、直はまた手前のカーテンに声をかけた。返事はない。


「新藤さん、入りますね」
 ふたりでカーテンの奥に入る。女性はベッドに仰向けに寝ていた。目を開いている。
「新藤さん、新しい仲間を紹介しますね」
 女性は返事をしないまま、天井を見上げた目でまばたきをした。


「今日から入りました、田中早紀です。よろしくお願いします」
 表情ひとつ変えない相手の腕に直がそっと触れる。床頭台には写真立てが置いてあり、中には家族と思われる笑顔があった。中心にいるのはこの女性か。膝の上に孫であろう子どもを乗せ、夫に違いない男性や子ども夫婦に囲まれて微笑んでいた。


「またうかがいますね」
 直が言って、私は頭を下げる。ふたりでカーテンから出ると、他の3名にもそれぞれ挨拶をして回った。後の人たちは寝ていたせいかうつろな印象だったものの、最初の女性と比べればずっと会話ができた。


「入浴だった方たちにはまた後で紹介するね」
 2階で会えた人たちにひと通り紹介が終わると、直は通用口から階段へ出た。私もそれに続く。
「新藤さんは、言葉は出ないけどぜんぶ分かってるから」
 直が言った。うん、と私が頷く。


「何も言わないから何も考えてないと思ってるスタッフが多い。そんなことはないって俺はいつも言うんだけどね。ああいう方ほど、忙しくなると雑に扱われがち。でもご本人は言いたいこといっぱいあると思うよ」
「うん」
 何も言わなくても考えている、とメモ帳の上でペンを走らせる。


「じゃ、次は3階ね」
 3階では、一人で歩いたり自分で車椅子をこいでいる人ばかりを見かけた。自分で居場所を決めて過ごしている人が多く、それぞれの場所で挨拶をし、直の冗談に笑い合ったりしながら、紹介してもらった。


「あっ、佐倉さん」
 直が呼び止めたのは、窓際のコーナーでお年寄りたちにお茶を配っている女性だった。
「こちらね、今日から仲間になった田中さんです」
「田中早紀です。よろしくお願いします」
 何回下げてもぎこちない頭をまた下げる。


「こちらこそよろしく。一緒にがんばろうね」
「はい」
 佐倉さんと呼ばれた年輩の女性が目尻を下げ、そのまなざしにどぎまぎした私は俯く。直が言った。
「さて、午後からは午前に紹介した方たちのことを詳しく伝えていくから。午前はこれで終わり。休憩入って。お疲れさま」
「ありがとうございました」
 職員食堂の場所を教えてもらい、作ってきたお弁当を広げる。直は食堂から出ていったまま戻って来なかった。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。