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【連載小説】「こかげ」第4回(全22回)

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 美恵子さんが転んだ。
「皆さんにご迷惑をかけちゃって、もう死んだ方がまし」
 六月の雨のように美恵子さんがまつ毛を濡らす。ベッドの上でおむつを交換していると、美恵子さんはたいてい同じ言葉と涙をこぼした。


 結局また、トイレで転んだ。一人で手すりを掴まり損ねたらしい。今回は大胆に倒れ、腰を床に叩きつけたまま30分ほど誰にも気づいてもらえなかったと本人は言う。受診をして異常はないと分かったものの、腰痛がひどくてトイレには座れなくなってしまった。


「だからトイレの時は呼んでって言ったでしょう」
 このセリフを何度もケアスタッフたちに言われたらしい。ちょうどその日は公休日で、私は休み明けの事故報告書で初めて知った。様子を見に部屋に行くと、ベッドで横になった美恵子さんは私の顔を見るなり右手を伸ばした。その細い手を両手で包んで視線を合わせる。


「私、腰が痛くて動けなくなっちゃった」
 美恵子さんの指に力がない。しおれた気持ちを指先が表現しているみたいだった。
「腰が痛くて動けなくなっちゃったんですね」
「そうなの。乱暴な人にお願いするのが怖くて一人でトイレに行ったの。そしたら今は、トイレにも行けなくなっちゃった」


「乱暴な人にお願いするのが怖くて一人でトイレに行ったら、今はトイレにも行けなくなっちゃったんですね」
「そうなの。娘とかお医者さんとか、ここの人たちとか、いろんな人に怒られたの。自業自得だって」


「娘さんやお医者さんやここの人たち、いろんな人に怒られたんですね。自業自得だって」
「そうなの。ぜんぶ私が悪いの。痛いのも、トイレに行かれないのも」
 そういうことにされてしまっている。頑固な高齢者は何度言っても言うことを聞かない、そんな扱いなのだろう。


 乱暴な人にお願いするのが怖い、という思いを、実はみんなは気づいている。気づかないふりをするのは、責任の所在が逆転するからだ。逆転して困る人たちがたくさんいる。態度を改めなければならないケアスタッフ。育成方法を再検討しなければならない管理者。ケアスタッフへの面倒な指導が増える主任。損害賠償をしなければならない経営者。転居先の検討を恐れる家族。本人の思いを聞く時間を省いて処方だけしたい医師。


「私もう、死んでしまいたい」
 閉じられる美恵子さんの瞳。
「もう、死んでしまいたいと、思うんですね」
 ひくりと、美恵子さんの中指が反応する。本当は違う、と読み取る私の両手。


「美恵子さん」
 窓の外は雲ひとつない。
「会いたい人は、いますか」
 包みこむようにたずねる。


「おとうさん……もう死んじゃったけど」
「おとうさんに、会いたいんですね」
「そう。とっても優しかった」
「とっても優しい、おとうさんだったんですね」
「そう。とっても……。でももう……死んじゃった」


 ここにあるのは希望か、絶望か。
 会いたい人が心の中にいる現実。優しかったおとうさんの記憶がある現実。その人がここにいない現実。


「それから……」
「それから?」
 私ね、とうっすら開く唇。
「さっきまで、あなたに会いたかった」
「私に?」
 そう、と唇が動く。


「あなたなら、分かってくれると思って。あなたなら、きっと私の味方になってくれると思って」
 いろんな人に幾度となく言われてきたセリフ。その紐をたぐり寄せると、いつも手のひらに乗る景色があった。やわらかな陽ざしの射し込む、あの喫茶店での。


「今、会っているなら、その人は会いたい人にはならないでしょう?」
 美恵子さんがまっすぐに私を見る。
「難しい質問ですねえ」
 会えないから会いたいと思う。確かにそうだ。でも。


「美恵子さん」
「なあに」
「会いたいと思っていた人が、すごく変わってしまっていたらどうでしょう」
「え?」
 今、会っている相手が、自分の憶えている相手ではなく、まったくの別人のようになってしまっていたら、それは会えたことになるのだろうか。


「そんなの……」
 難しくて分からないわよ、と美恵子さんの口角が上がる。やっと笑ってくれた。
「でもあなたは変わらないわよ」
「ふふ、そうですか」


 そうかもしれない。この30年、私は何も変わっていないのかもしれない。
 失礼しました、と言って美恵子さんの居室を出る。何気なく隣のドアを見ると、源三さんがからだを左半分だけ廊下に出してこちらを見ていた。


「あんたの声が聞こえたから」
「どうしたんですか」
 うん、と源三さんが表情を変えずに頭を掻く。


「カラオケの日って、いつだか決まってんのか」
「決まってますよ、毎週土曜日です」
「土曜日な」
 あっ、と声をもらしそうになる。もしかして。


「参加してくれるんですか」
「ちげえよ」
「午後の2時からです」
「ちげえって言ってんだろうが」


 雪駄を鳴らしながら源三さんが部屋に戻っていく。ゆっくりと閉まっていくドアのすき間から、お待ちしてます、と声をかける。ドアに耳を当てて返事がないのを確かめていると、きゅいっ、きゅいっ、という足音が近づいてきた。この足音は乙村さん。


「何やってんの」
 笑いを含んだ声に振り返る。今の職場で私がプロと呼べる職員のひとり。40代で介護の仕事歴は10年だという。その前はデパートで接客をしていたらしく、お年寄りたちに対する物腰や振る舞いが丁寧、かつさり気ない。どんなに経験年数を重ねていても、お年寄りへの態度が横柄だったり馴れ馴れしい人のことを私はプロとは思わない。彼女は介護技術の高さから接遇の手厚さまで申し分のない人。私にしては珍しく、今の職場で心をゆるす先輩スタッフだった。


「源三さんがカラオケのある日を確認してきたの」
「へえーっ、すごい」
「だから、お待ちしてます、って言って一応返事を待ってみた」
 あはーっ、という笑い声と同時に、きゅいっ、きゅいっ、と彼女が歩きだす。私もそれに続いた。


 通用口から階段にふたりで出る。先に下り始めた乙村さんが言った。
「源三さん、どういう心境の変化だろうね。カラオケなんて大嫌いなのに」
「昭和の演歌の中に、きわどい映像のやつがあるって言ったの」
 あはーっ、と彼女がのけぞる。


「さすが田中さん。源三さんの心を掴んじゃったのね」
「ちょっと言ってみただけなの。居室で観てたやつに不満そうだったから」
「飽きたっていうのもあるかも。あれだけ毎日観てるんだから」
 そうか……それにしても、飽きたのだとしたら今さらのようにも思える。あの冷めた視線は、単なる趣味や性欲で観ているような印象ではない。


「本当は……何を求めているんだろう」
 私の呟きに、踊り場で乙村さんが立ち止まった。
「本当は?」
「そう。本当は」
「本当はって、どういうこと」
「うーん。源三さんにとってのエロビデオって、どういう意味があるのかと思って」
「意味かあ、考えたことなかった」


 乙村さんが腕組みをし、私は顎に手を当てる。私の疑問や問いかけを一緒に考えてくれるのはいつも乙村さんだった。
「田中さんは知らないかなあ。源三さんてね、若い時に奥さんを亡くされてるでしょ。源三さんが言うには、それはもう綺麗な奥さんだったんだって」
「へえ」
「顔も人柄も完璧だったって。ちなみにスタイルも」
 うわー、と両手で自分の肩を抱える。


「でも、それだけじゃないんだって言ってた」
「それだけじゃない?」
「うん。でも、どうしても教えてくれないの。そこから先は、どうしても」
 さっ、行かなきゃね、と乙村さんが階段を下り始める。
「続きはまたね」
「うん。ありがとう」


 通用口から1階ロビーに出ると、私たちはこれから朝礼のある事務所へ向かった。やばい、私たち最後だね、と乙村さんが耳元で囁く。事務所に駆け込むと、腕時計から目を離した事務長が口を開いた。


「おはようございます。本日の申し送りを始めます。では夜間帯の申し送り、2階からお願いします」
 はい、と2階の夜勤者が記録を読み始める。


「倉田様、昨日の夕食に続いて朝食も溜め込みが見られ、主食2割、副食3割、水分80です」
 倉田さん……最近どんどん食べられなくなっている。
「並木様、23時に居室から出てこられ、隣の部屋のテレビがうるさくて眠れないと言われています。お隣の佐伯様に就寝をお勧めしましたが拒否があり、イヤホンの使用をお願いしました」


 源三さん……また夕べも深夜までビデオを観ていたのか。そこからカラオケが気になりだすまでに、何があったのだろう。
 同じことを考えたのか、隣で乙村さんがメモを取っていた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。