【連載小説】「こかげ」第11回(全22回)
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就職してもうすぐ1ヶ月。下駄箱で靴を履き替えながら、早紀さん、と呼ばれて顔を上げる。
「あ、おはようございます」
「おはようございます。少しは慣れました?」
重そうなリュックを背負いながら声をかけてくれたのは島田さんだった。年輩のパートさんで、入浴とリネン交換を担当している。
「慣れたと言いたいんですけど……」
そうだよね、と島田さんが笑う。ようやく職員と生活者全員の顔と名前を覚えつつあるところだった。はじめの1週間をかけて生活者の情報と介護の基礎を直が教えてくれた。その後は実際にフロアに出て直接介助をしながら指導してもらい、最近少しずつ一人で任されることが増えてきていた。
「早紀さんてさ」
リュックを背負い直しながら、島田さんが真っすぐに立つ。
「はい」
「三条くんとは、もともと知り合いなの?」
「えっ」
「あのね、早紀さんといる時の三条くんがなんか違うんだって。私はそんなに気にならないんだけど、みんながそう言うから」
「なんか違う?」
自分ではよく分からなかった。私がここに来る前の直がどんな人だったのかを私は知らないし、私がいない日の直がどんなふうに振る舞っているのかも知らない。ふざけていても、真面目くさっていても、私にとってはどれも直だった。
「そう。すごく活き活きしてるって。私はね、前から彼は活き活きしていたと思うんだけど、そういうことじゃないんだって」
「そういうことじゃない」
「うん……。なんだろうね。よく分からないけど」
「はい」
「まあ、気をつけてね。彼は人気があるから、それだけ注目もされるのよ」
「はい……」
気をつけるといっても、どうしようもなかった。
「じゃ、今日もよろしくお願いします」
手を振りながら背中を向けた島田さんを見送り、こちらこそ、と言って私は更衣室へ入った。
*
今日は午前中から入浴介助だった。
「入浴は今日で何回目だっけ」
脱衣場に入ってきた直が半袖を肩までまくり上げる。先にいた私はメモを見ながら浴室の準備を始めていた。
「今までやったのは機械浴の誘導と衣類の着脱だけで、3回目です」
「そっか。まだちょっと外介助だけにしておこうね。身体を洗ったりする中介助はもう少し慣れてから。まずは機械浴をしっかりできるようになって、一般浴はその後にしよう」
「はい」
準備を始めてくれてたんだね、と声を弾ませながら、直が浴室まで入っていく。いいじゃん、できてるね、とエコーの効いた褒め言葉が聞こえてきた。
「よろしくお願いしまーす」
脱衣場のドアが開いて入浴の介助着を着た島田さんが入ってくると、続いて姿を見せたのは夏実さんだった。
「よろしくお願いしますう」
「おっ、よろしく」
浴室から顔を出した直が手を上げる。よろしくお願いします、と言いそびれ、私はメモ帳を見るふりをした。
「主任と一緒にお風呂って、すごく久しぶりですう」
介助着の短パンからスタイルのいい脚が伸びている夏実さんが、甘えるような声を出した。
「そうだっけー。よろしくねー」
直はストレッチャーにバスタオルを敷きながら夏実さんを見ると、すぐに私に身体を向けた。
「前回言ったかもしれないけど、今回も新藤さんが一番最初ね」
はい、とメモ帳を開く。
「早い時間の方が比較的血圧が落ち着いてるからですね」
「そうそう、すげえじゃん」
「書いてありますから」
ぶははーっ、と直が吹いた。
「そんなの見りゃ分かるよ。書いてあることがすげえって言ってんの」
「そうでしょうか」
「そうだよ。なんで今日はやけに真面目ぶってんの」
「そんなことはありません」
「そうじゃん。変なの。じゃあ行くか」
脱衣場を出る直についていく。今のやり取りをあのふたりはどう思っただろう。新藤さんのベッドに向かいながら、直が振り返った。
「今日は何かあったの」
「べつに」
「なんか今日は感じが違うじゃん」
「べつに」
「そうかな。冷たい感じがする」
「べつに」
「ふーん」
どうしていいか分からなかった。誰に対する態度も、直にとっては無意識なんだ。
「コンコンコン、失礼します」
カーテンを開けると、新藤さんはベッドの上で瞼を閉じていた。
「新藤さん、お風呂に行きますよ。お布団とりますね」
新藤さんの耳元で言葉をかけてから、直が掛布団をするりと足元に寄せた。床頭台の扉を開くとバスタオルを出す。
「横を向きますよ」
横向きになった新藤さんの身体を私が支えると、シーツの上に直がバスタオルを広げた。
「戻りますよ」
仰向けに戻し、反対側も向いてもらいながらバスタオルの四隅を引いて整える。
「もうすっかり慣れたじゃん」
「そんなことないです」
なんだよー、と私の腕を直が肘で小突いた。
新藤さんは皮膚が弱く、皮下出血ができやすい。そのうえ身体が硬く、つま先も伸びきったまま固まってしまっている。じかに抱えるよりもバスタオルごと車椅子に移り、新藤さんが痛い思いや怖い思いをしないようにするやり方だった。
「新藤さん、車椅子に乗りますよ」
車椅子をベッド脇につけ、直と私それぞれでバスタオルの隅を持つ。息を合わせて持ち上げると、慎重に車椅子に下ろした。
「何年後かにはさ、もっと安全に移乗できる装置みたいなのができてるといいね」
俺よくそう思うんだ、と直が新藤さんの乱れた上着を整える。
「このやり方を今は最善だと思ってやってる。でも何年後かには笑われるかもしれない。それでもやる。本当はもっといいやり方があるんだとしたら、新藤さんには申し訳ないと思う。だから」
そこまで言って、直は私を正面から真っすぐに見た。
「学び続け、求め続ける。それが何よりも大切だと俺は思ってる」
学び続け、求め続ける……。
「メモ、取らないの」
「えっ」
「ここ、すげえ重要」
「あっ」
慌ててポケットを探った私に、ぶははーっ、と直が笑いだした。
「さっちゃんのそういうところ……」
いや、なんでもない、と直が目を伏せる。メモを取りながら、なぜだか私は泣きたい気分になった。わあっ、と声をあげて、新藤さんの膝に顔をうずめたくなった。学び続け、求め続ける、と書いた時、その文字は再び直の声となって紙の上から花びらのように浮かび上がり、ひだまりの中をひらひらと舞った。あまりに美しくて、私はいつまでもそのひだまりに包まれていたいと思った。美しいのは言葉そのものではなく、直の信念だった。
「新藤さん、動きますよ」
車椅子のブレーキを外すと、直は車椅子を押しながら廊下へ出た。その背中を見つめながら、私は気づいてしまった。気づかざるを得なかった。本当は、ずっと前から苦しかった。苦しいことに気づきたくなくて、放っておけばみるみる膨らんでいく想いを無理やり箱の中に押し込めて鍵をかけていた。厳重にかけたはずのその鍵を、いつもこの人があっさりと開けてしまう。この人の笑顔が、声が、言葉が、存在そのものが、私を占領し無限に広がり、自分でも知らなかった私の中の宇宙を見せてくれる。見たこともなかった星々が輝きを放ち始め、その美しさに胸が締めつけられる。この人の見せてくれる世界、こんな世界が私の中にあったなんて。何もないと思っていた私の世界は、この人といるとまったく新しく塗り替えられていく。
「どうしたの」
直が立ち止まって振り返る。
「なんでもありません」
やっぱり変だよ、とわざと口をへの字にして、直はまた車椅子を押した。
「帰り、ミーティングな」
「はい?」
「今日、変だから。話をしよう」
今度は振り返らずに直は言った。
私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。