見出し画像

【連載小説】「こかげ」第3回(全22回)

          3

「本当に良かったよ。早紀ちゃんが戻ってきてくれて」
 喫茶店のアルバイトを再開してから数日後、マスターが安堵の声をもらしたのは店内に客がいなくなった昼下がりだった。


「またすぐに休んじゃうかなと思ったから言えなかったんだけどね」
 スプーンをひとつひとつ拭きながら、黒い蝶ネクタイのマスターがこちらを見る。
「ご心配をおかけしました」
 店内4つのテーブルとカウンターからシュガーポットを集め、角砂糖を補充する。マスターには休んだ理由をまだ話していない。


「いや、そういうこともあるよ。いろいろあると思う」
「いろいろ……」
「そう、いろいろ。僕だってさ、思い返せばいろいろあったから」
「事件を目撃したり?」
「いや、そういうことはないけどね。まあ、死ぬほど好きだった女性にふられたり、借金を返せなくて親戚に頭下げて回ったり、そんなことぐらいだけど」
 今となっては大したことないか、と苦笑してから、マスターがふと手をとめた。


「そういえば」
「はい」
「今、事件て言ったよね」
 ずきん、と心臓の裏側が痛む。


「早紀ちゃんが休んでいる間にね、印象的なお客さんが来たんだよ」
「印象的な?」
「そう。そのカウンターの一番隅でコーヒーを頼んだんだけど、ただじっと眺めていて何時間も飲まないの。なんか僕、その人が自殺でもしちゃうような気がしてさ、思わずサービスでトースト出しちゃったんだよね」


「女性ですか」
「ううん、男の人。まだ若い感じ。20代だろうね。そしたらその人、次の日にまた来たんだよ。前の日よりも少しいい表情でさ、今日はちゃんとお金を払ってトーストいただきますって言って」
「良かったですね」
「うん。昨日は心配しちゃったよって言ったの。そしたらさ、彼が少しずつ話してくれたんだよね。事件のことを」


「事件……」
「なんでも、親しくしていた女性が目の前で飛び降り自殺をしたらしい」
 はっ、と息をのむ。どくどくと、動脈が激しく打ち始める。
「別れるというか、つき合っている訳ではないことをしばらく前からはっきりさせようとしていたらしいんだけど、相手はつき合っていると思っていたんだね。それで、別れるくらいなら死ぬって言い出していて、まさか本気でそうするとは彼も思っていなかったって」


「そ、それ……」
 角砂糖の袋が小刻みにふるえる。
「ん? うん。まあ、そういう男女の勘違いはよくあるんだろうけど、彼女が運転していたドライブ中に、海の近くで」
「マスター!」
 角砂糖の袋をカウンターに叩きつける。


「なっ、なんだい、早紀ちゃん。どうしたの」
「彼女は運転席を降りて崖へ走った。死んでやるって、笑いながら。冗談だと思って追いかけるタイミングが遅れた。名前を呼びながら追いかけたけど追いつかない。そして」
「早紀ちゃん、それ、どうして……」
 カウンターの椅子にへたり込む。
「あゆみ、って叫びながら……」
「早紀ちゃん……」


 からだじゅうの糸という糸が切れて、カウンターに頬を乗せた。からだを起こすことができない。手がふるえて、声が出ない。
「早紀ちゃん……」
 深い沈黙のあと、目の前にガラスのコップが置かれた。氷水だった。


「その彼、言っていたよ。彼女の自殺はほぼ断定されていたんだけど、それでも周囲の視線は冷たかったって。女性の親族の中には、おまえが突き落としたんだろうって言う人もいたって。そしたら、目撃者が現れたんだって。奇跡が起こったんだと言っていたよ」


 カウンターに顔を置いたまま、重力に任せて瞼を閉じる。どこかで、あれは夢だったと思いたがっている自分がいた。何も見ていないことにしたがっている自分がいた。警察署に行って、そんな事件はありませんよと怪訝な目で見返されたかった。


「私はただ……夕陽の写真が撮りたくて……。それなのに……」
「早紀ちゃん……」
 窓から射し込む陽ざしが、まぶた越しにやわらかい。それきり言葉をかけずにいてくれるマスターの優しさが、ひだまりみたいだった。


 入口の扉が開く音でからだを起こす。
「いらっしゃいま……」
 言葉をとめたマスターの視線の先で、店内に一歩踏み入れた若い男性が会釈をした。マスターが私の顔を見る。私が立ち上がる。いらっしゃいませ、と言いそびれてしまった。


「おっ、今日は空いてる」
 誰にともなく言って、男性はカウンターの隅に座った。
「いらっしゃいませ」
 レモン水を注いだグラスとおしぼりを男性の前に置くと、男性が私を見上げた。


「あっ、店員さんだったの。お客さんかと思っちゃった」
「あっ、失礼しました」
 両肩を持ち上げた私に、ぽはぁ、とマスターが目尻を下げる。このマスターの独特な笑い方が私は好きだった。マスターが言った。
「しばらくお休みしていたんだけど、うちの看板娘なの」
「へえ」
「ちょっと、やめてくださいよ」
 丸いお盆を胸に抱えると、まだ微かに手がふるえていた。


「ここのトースト、美味しいよね」
 メニューを開きながら、男性はもうトーストを注文するような言い方をした。
「はい」
「コーヒーはどうしようかな。ねえ、ここのトーストに一番あうコーヒーはどれ」
「えっ」
「看板娘がすすめてくれたやつにするよ」
「それは……」


 トーストにあわないコーヒーなんてたぶんない。そういえば豆に興味を持ったことがなかった。
「ぜんぶ、おすすめです」
 ぽはぁ、とマスターが笑うと男性も吹き出した。
「マスター、その笑い方やめてよ。つられるから」
「いや無理だよ。65年もこの笑い方なんだから」
「まあでも、おかげで自分が笑えるようになったってことが分かったよ」


 何も言わないマスターの笑みが温かい。あ、と直感する。男性が私に視線を移した。
「初めてここに来た日、マスターにトーストをごちそうになったんだよ」
 もしかして……。


「思えば、あの時のトーストに俺は救われたのかもしれないな」
 もしかして……。
「マスターが俺を現実に連れ戻してくれた」
 もしかして……。
「マスターは、命の恩人だ」
 当店オリジナルブレンドってやつにするよ、と男性がメニューを閉じた。かしこまりました、と言いそびれたまま、私は伝票の上でペンを走らせた。


「命の恩人とは大げさだよ」
 ため息まじりにマスターがコーヒーの瓶に手をかける。
「僕はトーストを出しただけで、奇跡は起こしていないよ。うちの看板娘と違って」
「ん? 奇跡?」
 カウンター越しに男性の視線を感じる。流し台で手を洗いながら私は顔を上げることができない。


「奇跡って、なに」
 そう呟く男性の視線は私から逸れない。気づかないふりをしてタオルで手を拭き、戸棚から厚切りパンを取り出す。何も聞こえていないような顔をする。マスターの声が力強く店内に響いた。
「お客さんを救ったのは彼女なんじゃないかな。こうして笑えるようになったのも」
「えっ」


 男性が私の方に向き直る。だめだめ。そんなに見られたら動けなくなってしまう。私はこれから、トーストを焼こうとしているんだから。十字に入れた切り込みの中にバターがじゅわりと染み込んでいく、ふんわり、さっくりとした、香ばしいトーストを。


「あなたが……」
 かたん、と椅子を引く音がした。ぎこちなく、ゆっくりと、男性が立ち上がる。
「あなたが……」
 ちょっと。近寄ってこないで。私は今、トーストを焼くんだから。こっちに来ないで。
「あの時……」
 もうだめ。息を吸い込む。


「すっ、すみませんでした!」
 頭を下げたまま、動くことができない。マスターのつま先がこちらを向いたのが分かる。
「勝手なことをしました! 私はただ、夕陽の写真が撮りたかっただけだったんです。そしたら、追いかけっこをしている男女が現れて、思わずシャッターをきったんです。素敵だなと思っただけなんです。まさかあんなふうになるなんて思わなかった。そんな写真を、警察に持っていくなんて……」


 すみませんでした、と声がふるえた。マスターのつま先は動かない。
「顔を……上げてください」
 小さく言って、男性が席に戻るのが足音で分かった。乱れた髪もそのままに、私は静かに顔を上げた。


「目撃者が現れたって聞いた時、すぐには信じられなかった」
 カウンターに肘をついた男性は、顎の前で両手を組んだ。
「あんな崖だからね……」
 まさか人がいるとはね、と小さく言って、男性は両手で顔を覆った。
「いくら俺が説明しても、聞く人たちはみんな薄っぺらい反応だったよ。信じてもらえてないって分かったし、絶望しかなかった」
 波を見下ろしながら、ぐにゃりと地面に伏せたあの時の姿がよみがえる。


「俺も死んじゃおうかな、って考えてた。ここで、この席で、コーヒーの湯気を眺めながら。マスターがどうぞ、ってトーストを目の前に置いてくれるまで」
 その日、同じ瞬間の私はもう布団から出ていたに違いない。顔を洗い、髪をとき、着替えをし、賞味期限当日の牛乳を飲んだ。全力で自転車をこいで警察署前にとめ、玄関を入ってすぐの受付窓口に駆け寄ったんだ。


「目撃者が現れたって聞いた時、分かったことがあった。俺は、まわりの人たちに信じてもらえないことに絶望していたのではなく、味方が誰ひとりいないことに絶望していたんだって」
 あの時、私を動かしたものは何だったのか。好奇心ではない。正義感でもない。


「奇跡が起こった。そう思った。あんな崖に人がいて、あの時のことを見ていた。それだけでも充分だったけど、それだけじゃない」
 あの時、夢中で説明した。取調室で、必死で、分かってもらおうとしていた。


「ひとりじゃないんだって、思った。そのことが、奇跡だった」
 くすん、くすん、と鼻をすする音がして、ぽはぁ、とマスターが目頭を押さえた。そう、マスターは、笑う時も泣く時も同じ声を出すんだ。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。