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【連載小説】「こかげ」第6回(全22回)

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 倉田さんの状態が思わしくない。
 血圧はほぼ毎日上が80台。70台の日も珍しくなかった。その他のバイタルサインの数値は悪くないものの、うつろな表情が増え、食事も飲み込めないことが増えていた。


「倉田さん」
 彼女のピントが合う場所を探しながら、一人で遠ざかったり近づいたり、上下に動いてみたりする。お互いの世界が交わると倉田さんはたいてい小さく唇を開いてから微笑んだ。


「こんにちは」
 挨拶をすると、彼女も会釈をする。よく見ていないと見逃してしまう、微かな会釈だった。
「いや、ないない。そんなことはまずない」
 倉田さんの微笑みや会釈の報告をすると、たいていの同僚は信じてくれない。唯一、乙村さんだけが、いや、あるある、と言ってくれた。


「お昼ごはんですよ」
 スプーンを近づけると、それだけで口を開いてくれることが多い。時に全く反応せず、食事が口の中に入っても脱力した口唇から流れ出てしまうことがあり、最近はそうなることが増えてきているようだった。


「どうぞ」
 倉田さんの視線の先を意識し、紙ひこうきを飛ばすような手つきでスプーンを遠くからゆっくりと近づける。薄く開いた唇のすき間からスプーンを差し込むと、ミキサー状の食事を舌の上に置いて平らに引き抜く。


「お味はいかがですか」
 こつこつと、倉田さんの入れ歯が鳴る。よく噛んで、味わっているのが分かる。膝の上でわずかに動く指先。本当は自分で食べたいのだろうと想像する。


「自分の食事くらい、自分で食べたいよね」
 かつて言われたことのある言葉。どれを食べるかを自分で選びながら箸を伸ばす。もう少し醤油をたらしてみようとか、そうだ胡椒をふろうとか、好みの食べ方で味わう。そんな当たり前のことが当たり前でない世界は、想像することを意識していないと簡単にただのエサやりと化してしまう。


「たくさん召し上がれて良かった」
 倉田さんの腕に触れると、膝の上で彼女の指先がひくりと揺れた。食堂内は下膳が始まっていて、騒がしくなりつつあった。私は立ち上がると、倉田さんのお膳を持ち上げた。


「わあ、今日はよく食べられたんですね。すごい」
 すれ違いざまに中堅スタッフの女性が言った。
「うん。しっかり噛んでたし、むせなかったですよ」
「なんか、田中さんが介助するとよく食べる気がします」
「そうかなあ」
「はい」
 彼女、そういうことに気づける人だったのね。そっちの方が嬉しくなる。ここでは私の方が後輩だし、上から見ているようでそんなことは言えないけれど。


「食後の歯磨きに行きましょうね」
 返事がないと分かっていても言葉はかける。倉田さんは、分かっている。


 居室に入ると洗面台に向かって車椅子をとめる。鏡に映った倉田さんの姿に彼女自身が視線を向けることはほとんどないけれど、洗面台を前にするとこれから歯磨きや整容をすると理解しているように私には見える。なぜそう見えるかをうまく説明できないから、気のせいと言われてしまえばそれまでだった。


「お口の中、失礼しますね」
 両側の口角から指先を入れ、丁寧に入れ歯を取り出す。流水のもとでブラッシングして容器に入れ、水に浸す。
「歯磨きしますよ」
 スポンジのついたブラシを差し込み、くるくると回しながら残渣物を拭う。倉田さんは上下とも総入れ歯で、ブラッシングはしない。うがいができないので、口腔用のウエットシートで仕上げる。


「リップクリームをつけておきましょうね」
 唇が潤うと、彼女の表情まで艶やかに見える。
「横になりますよ」
 ベッド脇に車椅子を寄せると、私は倉田さんと視線を合わせた。


「膝かけを取りますね」
 小花柄の膝かけをたたんでチェストに乗せる。ひとつひとつの動作ごと私に言葉をかけられながら、倉田さんはベッドで仰向けになった。


「おしもをきれいにしましょうね」
 皮膚をいたわるように陰部と臀部を拭き上げる。尿取りパットを取り替えるとおむつのテープをとめ、ズボンを上げて倉田さんの姿勢を整える。一人では寝返りを打てない彼女が寛げるように。


「ちょっとお昼寝しましょうね」
 そっと掛布団をかけたところで倉田さんが瞼を閉じた。
「失礼しました」
 そろそろとドアを開いて居室を出る。今日は体調いいみたい。良かった。


「おい」
 ドアがぴったりと閉まったところで声の主に振り返ると、ふたつ向こうのドアから右半分だけ身体を出して源三さんがこちらを見ていた。
「はい」
「あんたの声が聞こえたから」
 へええ。テレビの大音量で苦情が来るほど耳が悪いはずなのに、ひとつ飛ばして隣のドアから聞こえる私の声に反応してくれるなんて。いや、聞こえるはずはない。もしかして、私が通るのを待っていたとか? まさかね。


「どうしました」
 近寄って、源三さんの前に立つ。
「今日は金曜だな」
「そうですね、今日は金曜ですね」
 うん、と源三さんが頭を掻く。


「明日はカラオケはあるか」
「えっと……。ありますよ。特に変更とは聞いてないです」
「そうか。2時だったな」
「あっ」
 私が両手をぱちんと叩くと、源三さんが頬を赤らめた。
「参加してくれるんですね」
「知らねえよ」
「お待ちしてます」
 ちげえよ、と頭をかきながら、源三さんは居室に入っていった。


「お・ま・ち・し・て・まーす」
 細いドアのすき間から言って、耳をぴたりとつけてみる。返事はない。
「また怪しい人になってるよ」
 笑われて後ろを見ると、乙村さんが車椅子を押しながら通りかかるところだった。きゅいっ、きゅいっ、という足音がゆっくりで気付かなかった。


「明日のカラオケはあるかって」
「へえーっ。なんだろうね。明日楽しみだね」
「うん。でも私、明日休みなの」
「あれま残念」
 乙村さんの背中を見送りながら、源三さんの照れくさそうな顔を思い出す。いけない、のんびりしている場合じゃなかった。他の方の歯磨きもあるんだから。さっきの源三さんのことは、記録に残してみんなに申し送っておこう。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。