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【連載小説】「こかげ」第5回(全22回)

          5

 スーツを着るのは大学の卒業式以来だった。やりたいことが見つからず就職活動に身が入らないままマスターのところでバイトを始めた私は、せっかく新調したスーツにほとんど袖を通していなかった。


「ふう、やっと終わった」
 就職面接を終えた私は、施設の玄関を出ると建物を振り返った。老人ホーム。まさか自分が足を踏み入れるなんて想像すらしたことのなかった場所。まして、生まれて初めて関心を持った仕事が介護だなんて、冗談みたいな話だった。


「このまま仕送りを続けるくらいなら、家賃がもったいないから帰ってきなさい」
 近頃の母親が電話のたびに言うセリフだった。リミットは近い。就職をして自立しなければならなかった。


「だからってね」
 呟いて、鼻で笑ってみる。介護の仕事に決めたと言ったら、母親はなんて言うだろう。まあ、どうせ続かないだろうからやってみなさい、とでも言うだろうか。大学を出てどうして介護の仕事なの、と言うかもしれない。あるいは、就職してくれればそれでいい、と言うか。考えに軸のないところ、私にやりたいことが見つからないのは母親ゆずりなのかもしれなかった。


「おっ、今日だったのか」
 聞き慣れた声に振り返ると、はちきれそうな笑顔があった。眩しいほど爽やかで、見つめていると心臓を絞られるみたいに胸が苦しくなる。


「俺、夜勤明けなんだよ。今から帰るところ。メシでもどう? 面接終わったんでしょ」
「うん」
「マスターのところにしようか」
 もうすっかり常連だった。あの日から彼、三条直さんは、ほぼ毎日店に現れた。コーヒーを飲みながら私のバイトが終わるのを待ち、一緒に帰った。レストランに入っても食事などろくすっぽせず、何時間でも語り合った。


「俺ね、介護の仕事してるの。男なのに珍しいでしょ」
 珍しいということがステイタスであるかのような言い方をして、三条さんは生ビールをあおった。介護の仕事なんて興味を持ったことがない私でも、女性職員の占める割合が多そうだという想像はできる。ただ、その中で男性職員が働く姿はモザイクがかかったようにぼんやりしていた。


「施設だから寮母さんてやつだね。ま、俺は男だから寮父ってことになるんだろうけど、けっこう寮母さんて呼ばれちゃってるかな」
 どうでもいいけどね、と笑いながら、三条さんはジョッキを高くかざした。
「生をもう一杯ください」
 はあい、と振り返った店員が笑顔を振りまく。


「いやあ、さっちゃんと一緒だと飲みすぎちゃうなあ」
 頬を赤らめた三条さんの呂律が回らなくなってきている。
「私のせいなの?」
「そりゃあそうだよ。好きな人とメシ食うなんて幸せじゃん。ビールだってそりゃ、うめえだろ」
「そんなこと、誰にでも言うんでしょう」


 私が疑惑の視線を投げると三条さんは、さあねー、と下唇を突き出してから大口を開けて笑った。
「その笑い方……」
 つい、つられて笑ってしまう。三条さんはいつも本当に楽しそうに笑う。ぶははー、と口を全開にして、両肩を大げさに揺らす。

「楽しいよねえ。さあ、食べようよ。さっちゃん食べてる? ほら、トムヤムクン。俺、世界で一番トムヤムクンが好きだわ。タイ料理だよ。世界三大料理のひとつ」


 酔っぱらうとよくしゃべる。私にすすめたトムヤムクンを三条さんが食べ始める。私が言った。
「世界三大料理ってさ」
「うん。うめえこれ。何これ。うめえ」
「中華料理、フランス料理」
「そうそう。で、あとひとつが」
「トルコ料理」

 ぶははーっ、と三条さんが肩を揺らす。
「さっちゃんて、おもしれえな。本当なのそれ」
「本当だよ」
「やべえ。そんじゃ俺、職場のお年寄りたちに嘘を教えてたわ」
 ま、忘れてるだろうけどね、と三条さんが生春巻きを頬張る。食べなよー、と皿を押しつけてくる。あーうめえ、とジョッキを傾ける。私はそれを、いくら見ていても飽きなかった。


「三条さんのさ」
「ああ、もう下の名前でいいよ」
「直さんの」
「さん?」
「直くんの」
「くん?」
「直の」
「うん」
「職場のお年寄りたちって、楽しいだろうね」
「そうかあ?」
 うん、とひとつ頷く。
「直……がいたら、何でも楽しそう」
「まあ、俺が楽しいからね。毎日いろんなことが起こるしさ」
「ふうん」


 まったく想像がつかなかった。介護に大変そうなイメージはあっても、楽しそうなイメージはそれほどない。
「俺ね、いつも思うの。どんな立派な教科書があったって、お年寄りたちに敵うものはない。大切なことはいつも、あの人たちが教えてくれた。あの人たちは、俺の人生のバイブルなの」
 人生のバイブル……。


「誰だってさ、年なんかとりたくねえじゃん。いつまでもピチピチのバリバリでいたいじゃん。それでも逆らえないものがあって、どうにかして生きていかなくちゃならない。世の中はさ、善か悪かで簡単に線を引くようなところがあるじゃん。悪を排除すればいい世の中になると思ってる人がたくさんいるじゃん。でもさ、その悪ってやつがなくなったって、いい世の中になんかならないわけ。なんでかって、すべての人間それぞれの中に、善も悪もあるから。俺はそう思うわけ。年をとって老人になると役立たずってハンコつかれてさ、社会の邪魔者みたいに隅っこに追いやられるじゃん。でもそんなことしたって世の中は良くならない。それよりも、あの人たちが経験してきたこと、くぐり抜けてきた歴史、そして今があるってことの中に、善と悪の秩序を保つための教えが山ほどあると思うわけ。あー、なんだか、何言ってんのか分からなくなった」


 かくん、と首を垂れると、直はじっと目を閉じた。
「ちょっと、寝ないでよ」
「うん。寝ない……」
「まったくもう……」
仕方ない。今日も頑張ったんだろう。
「どんな一日だったんだろうね」


 頬杖をつき、呟いてみる。瞼を開けずに俯いたままの直を眺めながら、この人が楽しいと言う介護の仕事について考えずにはいられなかった。
「私にも……できるのかな」
 介護の仕事、私にも。
「できるよ」
 目を見開いた直が、ひょいと首を起こした。


「なんだ、起きてたの」
「寝ないって言ったでしょ」
「そうだけど」
「それより」
 テーブルの上に乗ったすべての皿とジョッキを両脇に寄せると、直はずいと私の前に身を乗り出した。


「さっちゃん、できるよ。介護の仕事」
「そうかなあ」
「俺が言うんだから間違いない。俺はいつも見てる。さっちゃんの接客を」
「えーっ。あれと介護はぜんぜん違うでしょ」
「違くない。ていうか、ぜんぶ一緒だ。どのサービスも仕事も、地下で流れる水は同じなんだ」
 地下で流れる水?


「俺の施設においでよ。俺、主任だからさ」
「えっ。そんな急に言われても、まだぜんぜん……」
「迷ってる時間がもったいない。君のような人は、介護の仕事をやったらいい。俺がちゃんと教える。いいか、今の世の中で多くのお年寄りたちが受けている介護をそのまま放置していたら、いずれ俺らがそれを受けることになる。そんなの許していいはずがない。間違っていることは正して、いいことはもっと良くしていく。それをやるのが今の俺らの仕事だ」


 いつにもまして、熱がこもっている。直の視線が1ミリのぶれもなく真っすぐに私に向かってくる。やだ、胸がばくばく鳴っている。愛の告白じゃあるまいし。
「帰りに、履歴書の用紙を買って帰ろう」
 もう、強引なんだから。まだ返事もしてないのに。でも。
「分かった……」
 答えながら、まんざらでもない自分がいると気付く。やりたいことを本当に見つけたのかどうかも分からないけど、少なくともひとつの仕事に関心を持ったことだけは確かだった。

          *

「ただいまあ」
 慣れないのはスーツだけでなくビジネスパンプスもそうだった。私が店内に入ると、がつがつと不器用に靴底が鳴った。


「おかえりい」
 カウンターの向こうでマスターが顔を上げると、テーブルを拭いていた奥さんが、あら、と手をとめた。
「今日はスーツなのね。素敵よ」
「いやいや、もう疲れちゃって。今すぐに脱ぎたい」
 くくくっ、と私の背中で直が笑いを噛み殺している。


「何よ」
「あの仕事ならスーツなんてまず必要ないから、今日が着おさめだよ。せっかくだからそのまま布団に入って寝れば」
「やだあ」
 ぶっはー、と直が吹き出した。もう、ぜったい私がスーツのまま布団に入るのを想像してる。


「面接はどうだったの」
 受験生の娘を持つ父親のようにマスターが言い、私はカウンターで腰を下ろす。その隣に直が座った。
「緊張してよく憶えてないけど、なんか和やかだった」
「そっか。それにしても、早紀ちゃんが介護の仕事とはねえ」
「うん。私が一番驚いてるかも」


 やったこともないし、できるとも思わなかった。直の熱意に押されただけかもしれないし、続くかどうかも分からなかった。
「やれば分かる。やらなければ分からない。やってみて興味を持つこともある。まずはやってみることだな」
 直の言葉にマスターが深く深く頷いた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。