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【連載小説】「こかげ」第1回(全22回)

          1

 切り立った断崖にしては申し訳程度の貧弱な柵だった。観光地ではないし、地元の人でもほとんど足を運ばないためか、長いこと手入れをされていないのが明らかだ。その朽ちかけた木製の柵に私は触れるどころか近寄ろうともせず、水平線を眺めていた。


「あと少し……」
 波は凪いでいる。ここは私が最も気に入っていて最も多く通う、美しい夕陽の穴場だった。途中、木々の茂みをかき分け、ごつごつとしてよく滑る石を慎重に踏みながら緩い傾斜を下る。


    放射状に広がる薄い雲が茜がかってきた。この時間がたまらない。私は待つということが好きだし得意だった。幸せな時間には、それを待つ時間も含まれる。久しぶりに絶品の1枚に出逢えるか。一眼レフのグリップを握り直す。


「あういー……」
 そう聞こえた。私は覗いていたファインダーから目を離した。気のせいかと思うほど微かな声だった。ここで人を見ることは滅多にない。


「あ……」
 水晶体が人の姿を捉える。ひとつ向こうの断崖に見えたのは走っている人だった。私の位置からは小指の先程度の大きさに見え、長い髪と揺れるスカートから女性と思われた。


「あういー……」
 声の主か、女性を追いかけてくる人がいる。微かながら、声の質から男性のようだった。同時に、先を走る女性の笑い声も聞こえる。


 素敵だ、と思った。今まさに焼けようとしている空を背景に、追いかけっこをする男女。つかまえることができたら抱きしめていいって約束したよ、そんな1枚が撮れるような気がして、私はシャッターをきった。


「あういー……」
 その声が先の女性に届いているのかどうか、女性は足を緩める気配もなく海に向かって走っている。海に向かって。海に向かって……。海に、向かって?


「あああっ!」
 声を上げるのと同時に全身がこわばった。まるで鉄砲をかついだ兵隊のおもちゃみたいに私の身体はぴんと張りつめ、その硬直は二度とほどけないように思えた。女性は柵を乗り越えると、そのまま海に身を投げた。マネキンみたいだった。まっさかさまに落下した女性は、白いしぶきを上げて群青の中へ消えた。


「わわわわわわ……」
 刹那の出来事だった。舌を噛みそうなほど顎が震えた。カメラを持つ手も大げさなほど震えた。
「あういー……」
 波を見下ろした男性が叫んでいる。
「あういー……」


 女性をのみ込んだ波は、男性の声に知らん顔だった。男性がぐにゃりと地面に伏せると、私の膝も崩れ落ちた。変な夢を見ていると思いたかった。


「な、な……」
 何も、見ていない。私は、何も見ていない。
「な……」
 這いつくばってから前のめりに立ち上がり、振り返りもせず来た道を戻った。どうやって戻ったのか、よく憶えていなかった。

            *

 翌日のニュースでは、女性があの海に転落したと報じられていた。その場に居合わせた男性に事情をきいているという。夢ではなかった。別れ話がもつれていたとアナウンサーは原稿を読み上げた。


「早紀ちゃん、大丈夫?」
 マスターの声を受話器越しに聴きながら、私は頭まですっぽり布団をかぶっていた。アルバイトを休んですでに3日目だった。
「すみません……。お店、大変ですよね……」


 ここ一年ほど、文系の大学を卒業してからの私は喫茶店で接客をしていた。こじんまりとした店内に、マスターと私。私が休みの日だけマスターの奥さんが店を手伝っている。


「いや、店の方は大丈夫だけどさ、早紀ちゃんがこんなに休むことがこれまでなかったから、カミさんと心配してるんだよ」
「すみません……」


 布団から首を出し、壁の時計を見上げる。午前10時。朝からちっともお腹がすかない。昨日もそんな感じだった。


「無理する必要はないけどさ、早く元気になるといいね。待ってるよ」
「はい……。すみません……」
 手を伸ばして受話器を置き、再び布団の中に引っ込める。海に転落した女性の名前は「榊原あゆみ」とアナウンサーは言った。


「あういー」
 岸壁に走る女性と、それを追いかける微かな男性の声がよみがえる。「あうい」と聞こえたのは「あゆみ」だったに違いない。あれはカップルの甘い追いかけっこなんかではなかったんだ。

          2

「目撃者って、すごいですね」
 ピーナッツチョコレートを口の中に放り込みながら晴香が言った。新卒で入ってきた20代の女の子で、休憩の時は必ず食事の最後にピーナッツチョコレートを頬張る。


「30年前の話だけどね」
 椅子に反り返って大きく伸びをしながら、欠伸まじりに私は言った。
「それでどうしたんですか。ニュースを見て」
「警察に行った」
「へえーっ」
 晴香が身を乗り出す。


「どうして」
「その男の人が殺人を疑われているような気がして」
「ふうん……」


 そう、あの時は確かにそんな気がした。明確な理由などなかった。ただ、そんな気がした。自殺とも他殺とも言わないあの原稿を、何の抑揚もなくアナウンサーは読み上げた。それを私は布団の中で聞いていた。そして。


「いてもたってもいられなくなって、何日かしてから近くの警察署に行った」
「へえーっ。すごいですね。私なら行かないな」
「そう?」
「うん。だって、面倒なことに巻き込まれたくないもん」
「確かに……」


 呟きながら、当時は面倒だなんて思いもしなかったのだと今になって知る。ふいに思い立って警察署に行っていなければ、私はほとんど布団から出ることができなかったに違いない。あのとき私は、設定した時間になったら自動的かつ機械的に動き出す人形のように素早く布団を剥いだ。顔を洗い、髪をとき、着替えをし、賞味期限当日の牛乳を飲んだ。全力で自転車をこいで市内の警察署前にとめると、玄関を入ってすぐの受付窓口に駆け寄った。


「で、なんて言ったんですか。窓口で」
 晴香がテーブルに肘をついて私を見た。
「事件を目撃しました、って言った」
「それもまたすごいですね。相手にしてもらえたんですか」
「うん、一応」
「一応?」
「そう。一応、取調室に通されて話をした」


 実はあの時点で、遺書めいたものが自宅から見つかっていたことから自殺で処理が進んでいたらしい。私の証言と日付入りの写真で断定されたと聞いたのは後のことだった。


「ああ、もうこんな時間」
 晴香が壁の時計を見上げた。
「本当だ」
「休憩ってほんと、あっという間ですよね。後で続きを聞かせてくださいね」
 慌てて荷物をまとめた晴香が立ち上がる。私もそれに続いた。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。