語り合うべき友よ ~NMB48『太宰治を読んだか?』~
この曲は、NMB48の1stアルバム「てっぺんとったんで!」に収録されている曲になります。
NMB48の公式では公開しているものがなかったので、山本彩のソロバージョンで……。
1番Aメロ前半
追い風を背にし、その風に乗って順風満帆に進んで行くことを潔しとせず、あえて向かい風に抗いながら進もうとする。
若いころにはありがちなことですよね。
一体何のために、何に抗っているのか、当の本人ですらわかっていないのかもしれません。
ただ、体も急激に成長し自意識も強くなってくる中学、高校生くらいの時分には、「自分」というものを強く主張したくなるもの。
そのため、大人たちや学校などがそうあるべしと言う既存の秩序や既存の価値観に対して、ただそれだけでもって、むしょうに逆らいたくなってしまう。
若者時代がとうの昔になってしまった人たちにも、身に覚えがあるのではないでしょうか。
1番Aメロ後半
あり余るエネルギーを持て余してしまっているのでしょうね。
けれども、何をしたらいいのか、何をしたいのか、自分でもまだわからない。
進む先に、必ずしも明確なゴールが見えているわけでもない。
それでも無我夢中になって、何かをしないではいられないわけです。
そうしなければ、心の均衡を保てなくなってしまうのでしょうね。
1番Bメロ
子供から大人になる過程で、こういった想念に取りつかれた経験のある人も多いのではないでしょうか。
自分は一体何者なのか、何のために生まれて、何のために生きているのか、その理由を知りたいということなのでしょう。
けれども、いくら考えたところで答えは見つからない。
なぜなら、人がこの世に生まれて生きて在るということは、単なる偶然にすぎないのですから。
おそらく、そんなことはなんとなくわかってはいるのでしょうけれども、それでも何かしら安心するための理由がほしいということなのでしょう。
また、生きることには、意味や目的など何もありはしないのですよね。
そもそも「意味」にせよ「目的」にせよ、人間が作り出した概念にすぎないのですから、人間の思考を離れて、その物その事が本然的に何かしら意味や目的を持っているなどということはないわけです。
つまり、意味や目的は、人間がその物その事に付与したものなわけです。
ですから、自分が生きている事の意味や目的は、「知る」のではなく自分で「与える」ものなのですよね。
そのことに気づけば、「自分は何のために生きているのだろうか?」などと、それこそ無意味なことは考えなくなるのではありませんかね。
意味や目的が欲しければ、自分で付与すれば良いだけのことなのですから。
まあもっとも、意味や目的など、あろうがなかろうが普通に生きていけるのですけどね。
1サビ
出会ったその日に、唐突に「太宰治を読んだか?」と尋ねるような人など、今どきいないのではありませんかね。
「村上春樹を読んだか?」くらいなら、ありうるかもしれませんが……。
まあ何にせよ、そう尋ねられてこの主人公は、何を思ったのか、見栄を張って「読んだよ」とでも答えたのでしょう。
そう答えた手前、読まないわけにもいかず、おもむろに本屋に駆け込んで何冊か太宰治を買い込むわけです。
そして、すかさずファミレスに入って読み漁るのですけれども、家に帰ってからゆっくり読めばよさそうなものですよね。
家に持ち帰る時間すら惜しんで、きっと貪るように読んだのでしょう。
「縋(すが)るように ページめくりながら自分探した」とありますから、この主人公は、単に見栄を張った手前というよりも、自分が生きることの指針を太宰治の中に見出したかったというのもあったのでしょう。
2番Aメロ前半
何の風向きなのか……。
政治や社会の風向きなのか、景気の風向きなのか、はたまた流行り廃りの風向きなのか。
自分を含めた普通の人々は、相も変わらずそういったものに振り回されているといったところでしょうか。
2番Aメロ後半
何かにとことん打ち込みたくてウズウズしてはいるのだけれども、自分が本当にやりたいことが何なのか、なかなか見つけられない。
一方で、やりたいことが見つかって、夢や希望を抱いたとしても、それが叶わなかったらどうしようかと不安にもなってくる。
夢や希望が大きければ大きいほど、挫折したときの落胆も大きなものになってしまう。
それを思うと、ちょっと怖くなってきてしまいますよね。
けれども、たとえ挫折することになろうとも、自分はそれに懸けると言えるようなものこそ、本当にやりたいことなのではありませんかね。
勝ち負けや損得ではなく、純粋に自分が心底打ち込んでみたいこと。
2番Bメロ
ひょっとして、この主人公は失恋したての時期だったのでしょうか。
失恋して落胆して、虚無感に囚われて何も考えずに淡々と毎日を過ごしているようなときに、例の「太宰治を読んだか?」と尋ねる人と出会ったのでしょうかね。
2サビ
結局この主人公は、人生における悩みや疑問に対する答えを、太宰治の中には見出すことができなかったわけです。
なかなか破天荒な人生を送った人ですから、太宰治に感銘を受けたり共感できたりする部分を見つけるのは、もしかしたら難しかったのかもしれませんね。
これが、夏目漱石あたりであれば、まだ何か得るものがあったかもしれませんが……。
それはともかくとして、この主人公にとっては、太宰治から何も得られなかったということよりも、「太宰治」を介して人生を語り合える友人ができたということの方が、よほど大事な出来事だったのではありませんかね。
遊び友達だとか、あるいは恋の悩みを相談するよう友達ならば、わりとすぐに作れるのだろうけれども、「人生とは?」などと青臭いことを真剣な面持ちで語り合えるような友達など、今どきなかなか得難いでしょうから。
大サビ
もしかしたら、太宰治でなくても良かったのかもしれませんね。
芥川龍之介でも宮沢賢治でも、あるいはそれこそ夏目漱石でも良かったのかもしれません。
けれども、あのとき「太宰治を読んだか?」と尋ねられたことによって、この主人公は人生を語り合える友人ができたわけです。
ひょっとしたら、「太宰治」だったからこそ、すぐさま本を買いに行き、読み漁ったのでしょうかね。
なんだかんだ言っても、やはり「太宰治」という名前には、苦悩する若者の心を惹きつける妖しげな魅力が漂っていますからね。
その作品を読んだことがあるかないかは別にして。
こうして、この主人公は得難い友人と出会えたわけですから、ならば、あのときの自分と同じような人が目の前にいたなら、自分もそのような友人になるべく、こう問いかけようと思っているわけです。
「太宰治を読んだか?」と。
引用:秋元康 作詞, NMB48 「太宰治を読んだか?」(2013年)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?