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「歌」への限りなき讃歌 ~AKB48『運命の歌』~

夜更けに一人「歌」に思いを馳せてみると、自分にとって一番大切なものは、やはり歌なのだということに思い至る。
誰かに届く歌が歌えるのならば、他には何もいらない。
そういったようなことを歌った曲。

Bメロの歌詞に、

自分に一番大事なもの
抱えきれないダイヤよりも
いつでも手を伸ばせる自由

とありますが、この「いつでも手を伸ばせる自由」とは、何でしょう?
その直前にある「抱えきれないダイヤ」というのは、あり余るほどの財産、経済的な裕福さを喩えている。
その経済的な裕福さによって、いろいろなことができるようになるという意味では、これもまた自由を得ていることになるのですよね。
けれども、そういった経済的な裕福さを得たり、あるいは維持したりするためには、いろいろなものに縛られるという不自由さも伴うことになる。
そういった何かに囚われた窮屈な思いをするよりも、好きなときに好きなだけ手足を伸ばせるような、何ものにも囚われていない自由の方が大切だということなのでしょう。

そして、後段のサビで、

歌が歌えたら それでいい
他に欲しいものは何もない

とありますように、その伸び伸びとした自由を象徴するものが、歌に他ならないと言っているわけです。
さらに、

心の感情をありのまま
聴いてくれる人へ届けたいだけだよ

と続いて、歌は自分の気持ちをストレートに表現できて、それを見ず知らずの人たちに届けられると述べているわけです。
それこそが、歌の持つ素晴らしさなのですよね。

誰かが瞳を震わせながら
涙 流すのは 運命の歌

とありますように、その歌を聴いて、瞳を震わせながら涙を流す人がいたならば、その人にとってその歌は「運命の歌」となる。

2番の歌詞には、

ふと気がつくと うろ覚えのまま
口ずさみたくなって来る
いつも聴いてたあのメロディー
僕だけが忘れられてるのか?

というのがあるのですけれども、ここの「僕だけが忘れられてるのか?」という表現は面白いですよね。
文脈からいって普通なら「僕だけが忘れてるのか?」となりそうなところ。
それを、うろ覚えになっていることについて、「僕」が歌を忘れているのではなく、歌が「僕」を忘れているという言い方をしている。
詩的な表現ですよね。

ところで、2サビには、

歌を歌うしかないだろう
たった一人きりで生きるなら
生まれて死ぬまでの膨大な
人生の長さをどう使えばいいんだ?

とあって、ここだけを切り取ると、少々ネガティブな印象を受けそうですけれども、歌詞全体を見てみると、歌への思いに溢れたポジティブな印象なのですよね。
だとすると、ここの部分は反語的に捉えて、一人きりで生きていくことになったとしても、歌さえあれば生きていけるということを言いたいのではありませんかね。
それを裏付けているのが、サビの詞の中にある、

好きな歌 歌えたら
今 生きてる意味を感じられる
命の喜びを曲に乗せ
世界の彼方まで愛を込め伝えよう

というフレーズ。
胸の奥の思いは、歌を通じてどこかの誰かにきっと届くはずだというわけです。
そしてその歌は、誰かの「運命の歌」となる。

この曲の歌詞を読んでみると、歌に対する思いに溢れている。
まさに、歌に対する限りなき讃歌と言ってよいのかもしれません。

48グループは、今現在唯一のグループ横断的なイベントとして「AKB48グループ歌唱力No.1決定戦」を毎年開催している。
国内48グループの中でもっとも魅力的な歌い手を選出するコンテストなのですけれども、この曲は、そのイベントのテーマ曲としてうってつけなのではありませんかね。
ただ、いかんせん劇場盤収録のMVもないカップリング曲のため、AKBファン以外の人にはほとんど知られていない。
へたをすると、AKBファンでもこの曲を知らない人がいるかもしれない。
披露される機会もなく埋もれさせてしまうには惜しい、とても良い曲なのですけれども……。

引用:秋元康 作詞, AKB48 「運命の歌」 (2022年)


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