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息苦しさの正体を考える

ストラテラを飲み始めてからイライラし易くなった。
そして落ち込んでよく泣く様になった。
母親に薬が合っていないのではと言われ、薬をやめた。

色々あって、死ぬ事にした。
でも結局死ねなくて、私は今も生きている。

昔から、居場所というやつがよくわからない。
小学校ではいじめの対象になった。中学校や高校の頃は友達は居たけれど、学校には馴染めなかった。
塾や予備校では勉強に集中できなかった。
先生はみんな良い人だったけれど、何処も積極的に通いたいところではなかった気がする。まあ全部私が悪いのだけれども。これは過去をわざと悪く捉えているだけか。

こんな事を言ったら母親に
「またママの悪口書いて!」
と怒られるかもしれないが、母親は過干渉気味な人だ。逆に父親は自己責任を重んじる放任主義だ。
お人好しで能天気な父親と神経質で面倒見の良い母親に育てられた私は、随分チグハグな人間になった様な気がする。
母親は私の事をいつも心配しているし、私の夢は何でも応援してくれた。きっと今から
「医師はやめる」
と言っても最終的には尊重してくれるのだろう。
でもそれが言えない。
最近、両親に迷惑をかけたと感じる事が増えた。
沢山嘘を吐いた。沢山嘘を吐いて、無意味にお金を使わせた。無駄に期待ばかりさせた。両親や祖父母、特に母親には大変な迷惑をかけてしまった。

教授が私に研究テーマを教えてくれない。
一応大まかなテーマは決まっているのだけれど、詳しい事を何も教えてくれないのだ。
「いつ話してくれますか?」
と聞いても
「ちゃんと話す」
の一点張りで、取りつく島もなかった。
正直、とても不安だ。

正直、研究室に馴染めていないと思う。
同期の方が余程先輩達と仲が良い。
別に先輩達も私に話しかけてはこないし、私も資料の締め切りに殆ど全部遅れて迷惑をかけている為
「不真面目な癖にイベントと飲み会だけ積極的な奴」
と思われたくなくて引いてしまう。先輩達の会話が速過ぎてついていけない。話が物理的に聞き取れていない。難解な横文字に
「何て?」
と聞き返すのは私の定番のボケだけれども、現実には聞き返せない事ばかりが無数にある。

友達や教授にADHDだと話したのは間違いだった様な気がする。配慮を強いている様な気がするからだ。
友達も研究室の同期の男の子も色々気にかけてくれているけれど、ありがたいと同時に申し訳ない気がする。私は色々な人に迷惑をかけている。

「自分など居ない方が良かった」
とよく思う。
「自分など居ても迷惑だ」
ともよく思う。
それは残念ながら現実で、多分私の居場所は何処にもない。
母親にその旨を話したら
「迷惑などとは思っていない」
と言われた。
「新規の研究を任されるんだから教授に期待されているのだ、新しい事も多いから教授も話せない事が多いし先輩も指導のしようがないのだ」
と言われた。その理屈は一理あった。

数日前に、Twitterで
「発達障害の人は職場で嫌われ易い」
という投稿を見た。身に覚えがあり過ぎたから、私は青くなった。
確かに私は研究室の教授や同期や先輩達に
「お前は居ると迷惑だ」
と直接言われた事はない。
しかしながら冷静に考えてみたら、
「お前は居たら迷惑だ」
と面と向かって言ってくる人など、それなりの良識のある大人の中には居る筈がないのだった。
そう思ったら、落ち込んだ。やっぱり自分は研究室に居場所がないのだと思った。
そんな事を考えたら泣けてきた。
「早く死にたい」
と思った。
何の気なしに研究室のInstagramを見た。
私の研究室はInstagramのアカウントを持っている。フォロワーは殆ど研究室の学生とOBの、小さいアカウントだ。あのアカウントは平然とモザイクなしで学生の写真を発信している。勿論私の写真もある。膨大なインターネットの片隅で私の顔が全世界に発信されているのはなかなか愉快だった。
何の意図もなくInstagramを開いたら、投稿が2件増えていた。
1つ上の先輩方の写真が2枚。彼女達は数日前からある場所で開催されていた学会に出かけていた。
先輩の写真を見た瞬間ドキドキして、それまでの憂鬱が全部何処かへ飛んでいってしまった。先輩は相変わらず背が高くておしゃれで素敵で、そして元気そうだった。先輩の写真を見て元気になる自分はチョロいと思った。
投稿には、
「○○研大好き、×人組!」
と書いてあって、私はそれを見て笑いながら泣いた。研究室の事も、そんな事を言う先輩方の事も心の底から好きだと思った。
投稿にいいねをして、フォローまでした。本名でやっているアカウントじゃないから、きっと誰だかわからないんだろうな。

久々に「silent」を見直している。相変わらず紬ちゃんは可愛くて、想くんは繊細で、湊斗くんは優しくて、奈々ちゃんは捻くれていて、春尾先生は毒舌で、光くんや萌ちゃんは自分の姉や兄を気にかけていた。
昔は大して刺さらなかったドラマがやけにキラキラして見えた。笑い合う高校時代の紬ちゃんと想くんが羨ましかった。
恋をしているからかと思ったけれど、好きな人の好きなドラマだからだという事に気づいた。
ベタな表現かもしれないけれど、彼の所為で世界が彩度を増して見えた。
私は先輩に全力で恋をしているのだと知った。それだけがやけに鮮明な真実だった。

先輩に限った話ではなく、私は研究室の事が好き過ぎるのだと思う。
教授も助教も先輩達も同期も親切にしてくれている。それが所謂「大人の対応」というやつなのか、本当に歓迎してくれているのかは知らないが。
私は研究室に通うのが楽しくて、研究室の事が好きで、みんなの役に立ちたい。私以外が優秀で、私だけがお荷物で迷惑をかけている場所で、私はそんな事を考えている。だからこそ現状がしんどい。

迷惑をかけたくないと思うのは、きっと好きな人達に嫌われたくないからだ。それでも自分だけじゃどうにもできなくて、結局ギリギリに頼って、ますます余計な迷惑をかけてしまう。それは私の弱さで、そんな自分が私は嫌いだ。

「初恋、ざらり」という小野花梨主演のドラマがTVerで再配信されていたので見る事にした。気になっていたのに時間がなくて何となく見れずにいたドラマだった。
「普通」に憧れ、心優しい岡村さんに恋をする有紗の姿は共感できて苦しくなるくらいで、失敗を繰り返して同僚に嫌味を言われてしまうシーンは自分を見ているかの様だった。
「普通にならなきゃ」
有紗の言葉が胸に痛かった。課題の締め切りを守る事も、先輩に会う前にアポを取る事も、全部「普通」の事だった。
この子は、私だ。

アイドルグループNEWSのメンバー(小山慶一郎、増田貴久、加藤シゲアキ)の出演するレギュラー番組が次々終わっていく。ジャニー喜多川氏の性加害疑惑問題が関わっているのか、単に視聴率が稼げないからなのか、或いはその両方か、どちらも関係ない諸般の事情なのか。SixTONESもEテレで放送されていた唯一のレギュラー番組「バリューの真実」を失った。
グループの冠番組、いや、この際メンバーが全員出演できるレギュラー番組で良い。レギュラー番組を持つグループと持たざるグループの違いについて考える。活動休止中の嵐以外でメンバー全員が同時に出演できるレギュラー番組(YouTubeチャンネルを除く)を持っていないのは、20th Century、NEWS、Sexy Zone、SixTONES、Travis Japanの5組。4月からはHey!Say!JUMPとA.B.C-Zもそこに加わる様だ。結局これらのグループには枠を与える価値すらないという事だ。勿論そう言われた訳ではない。でも、現にそう言われた様なものではないか。
それらのグループの存在価値とは何ぞや。そう考えるとなかなか虚しいものがある。

思考を飛ばして自分の存在価値について考えてみる。
私はまともに休める大学最後の春休みに、教習所にも行かずバイトにも行かず、家で惰眠を貪り、たまに心療内科に行き、Twitterを見ては鋭利な言葉に傷つき、noteを書き、呑気にゲームばかりをやっている。シンプルに一緒に遊ぶ友達が居ないのだ。大学の友達が今何をしているのか私は全く知らない。というよりかつてよく共に行動していた友人達の近況自体私は知らない。
勿論「休み」の過ごし方としてはこれ以上ないのかもしれないけれど、生産性などあったものではない。多分数ヶ月後に院試の勉強をしながら
「もっと早くから勉強を始めておけば」
と思う羽目になるだろう。
さて、ではこんな私の存在価値とは何ぞや?
生産性に存在価値を置いてしまうと、私みたいなのは本当に死ぬべき人間になってしまう。私なんかは死にたい死にたいと呻いているのでまだしも、不可抗力で何かを生産できない人は果たして死ぬべきなのか?答えは否だ。多分。
多分生産性というやつに生き物の存在価値を置いてはいけないのだ。多分人間というやつは本当は生きているだけで素晴らしいのだし、人間の都合で迫害されるゴキブリにだって生きる価値はある筈な訳で。
多分私は自分の存在価値を自分で与えられる人間にならなければならないのだ。勿論生産性を上げた方が良いのは前提としても、自分は何もしていなくても生きていて構わないと、そう思えた方が良いのだと思う。多分そういうのが最近流行りの「自己肯定感」というやつなのだろう。そういう人間になりたい。自分の存在を無条件に肯定してくれる人は、究極的には自分しか居ないのだから。

母親からスマホを借りて、パズルのゲームをやっている。難しいけれど、やっていると案外面白い。
1つ1つピースを組み上げながら
「このパズルが私の生きた証になれば良いのに」
と思う。
アプリの中のパズルは、生きた証と呼ぶにはあまりにも手触りがなかった。

私が先輩が今日も生きていてくれて本当に嬉しいと思っている事を先輩は知らないのだと思う。
扉を押さえていた時に言われた
「ありがとうございます」
も、実験が下手過ぎると言った時の
「そんな事ないと思うけどな」
も、実験中に言われた
「こうした方がやり易いよ」
も、飲み会終わりの
「電車大丈夫?」
も、不安になっている私に言ってくれた
「先輩の真似をしたら大丈夫だから」
も、多分言った本人はとっくに忘れていて、私だけが宝物の様に大切に覚えている。多分それで良い。受け取った言葉の価値は、多分私が勝手に決めて良いものだ。

結局私が未だに研究室に居場所があるのかはわからないし、家族や友達、同期、先輩方、教授や助教、みんなが私の事を好きかどうかはわからない。もう全員とっくに私の事など嫌いなのかもしれない。
それでも、誰からも好かれていなかろうと、何も生み出していなかろうと、人に迷惑をかけていようと、その善し悪しとは別のところに私の存在価値は無条件にある筈だ。
人に迷惑をかけているかいないかとか、人に好かれているかいないかとか、そんな狭い尺度で測った価値観は息苦しいだけだ。

私はそこまでお酒に強い訳ではないのだけれど、先日飲み会で飲み慣れないビールを飲んでしまって周りの先輩方に非常に心配されてしまった。
もしかすると、私の居場所は思った以上に沢山あって、思った以上に強固なものなのかもしれない。

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