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【小説】賢十パーク

高井賢十(たかい けんじゅう)はその日、上機嫌で夜道を歩いていました。

賢十は、東北の小さな街の市長を務めています。そして今日、彼が進めてきたプロジェクトのひとつが、実を結んだのです。

台湾やヨーロッパの国と連携して、この小さな田舎街に、先端技術のラボを建てる。そして、街に雇用と、観光名所を生み出す。

10年近く前から、賢十はこのために奔走してきました。

自分たちの生まれ育ってきた街を、未来にも残したい。

その一心で、なれない政治の世界に飛び込み、夢中で働いてきたのです。

帰宅すると、家はがらんとしていました。

成人した息子は、とっくに東京に出ています。妻は、今日は仕事で、遠方に出張しています。

「こんなクソ田舎、なんの仕事もないじゃん」

そう言って去っていった息子のことを思い出しながら、

(きっと、若者たちが夢を持てる街になるぞ・・・)

そんな思いに、賢十はワクワクしました。

家に帰ると、彼は、オーディオをつけました。

お酒を飲みながら、音楽を聴く。それは、賢十の、忙しい公務の中での数少ない楽しみでした。

田舎街の夜更けに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ30番が、静かに響きます。

この曲に耳を傾けていると、賢十は、世界の底にいつも清らかな水のせせらぎが流れているような、もの悲しくも明るい気持ちになるのでした。

そのうち、疲れもあり、賢十は寝入ってしまいました。

真夜中、賢十はふと、目を覚ましました。にわかに風が出てきたようです。

夜闇を通して、カーテンがすうーっと、静かにはためきました。その様子は、なにかを差し招いているようでした。

窓際では、吊りさげたサヌカイトの風鈴(※)が、

 きいんきいん
 きいんきいん

と音をたてています。

この風鈴は、瀬戸内にあるK県夕凪市の友人からもらったものでした。

サヌカイトは、1000万年以上前の地殻変動でできた石です。

その音は、まるで、生命が誕生する前の、有機物と無機物がまだ分かたれない時代の奥底から響いてくるかのような、神秘的な響きがしました。

賢十はそれを、夢のような気持ちで聞いていました。

ふと、雲に覆われていた月が、空に顔を出し、田舎街の深い闇をにわかに照らし出しました。

そのときです。

賢十は、月の光の中から、なにかが近づいてくるのを感じました。

それは、かみさま、でした。


賢十は、典型的な日本人として、「神」について一度もちゃんと考えたことはありませんでした。

しかし、白い後光に覆われ、顔も定かでない”それ”が、たしかにかみさまだと、なぜかわかったのです。

(賢十、賢十よ・・・) 

かみさまが、賢十に語りかけてきました。

(インドのU州が、大変な事態を迎えようとしている)

(今の気候変動は、大干ばつと洪水を起こす。そして、数百万人が苦しむだろう)

インドのことは、賢十も、テレビやネットニュースなどで知っていました。

近年、気候変動の影響が、世界各地で出るようになりました。

賢十のいる街を含め、日本も夏が異常な暑さが続くことが増えていました。

しかし、インドは特にひどく、近年は熱波で50℃を越え、暑さで亡くなる人も多くいたのです。

虔十も、そんなニュースを見るたびに、心を痛めてきました。

(しかし、お前が、今もっているすべてを投げ出せば、これらの人たちを救うことができる)

かみさまは、厳かに告げました。

それは、あまりに唐突な話でした。

しかし、なぜか賢十は、それが「確か」なことだとわかったのです。

そのとき、賢十の脳のなかで、すうっと、ベールが剥がれたような感覚がありました。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(※)

昔どこかで読んだ、そんな言葉が、心に浮かび上がってきました。

そして、

(わかりました……)

(私は、この世界から、この体と心をお預かりして生まれてきました。それらを、この世界にお返しします)

そう、かみさまに答えました。


その途端、賢十ははっと目を覚ましました。

それはあくまで夢の中だったのか。

夜の田舎街は再び、静かにそこにたたずんでいました。

しかし、賢十は今、たしかに、なにかに呼びかけられたように感じたのです。

それから数日後、賢十はとつぜん、市長職を辞任することを発表しました。

そして、資産をすべて譲る条件で、妻との離婚も申し出たのです。

突然のことに周りは驚き、怒り、嘆き悲しみました。

賢十は、自分の周りに、たいへんな不幸を生んだのです。

もっとも、さいわいなことに、彼には優れた右腕の副市長がいたので、市政は大きな混乱はなく進みました。

「賢十市長には、後ろ暗いところがあるに違いない」

マスメディアは、視聴率やPV数(※)を稼ぐ良いネタになると期待しました。

中には、「大愚・賢十市長の過ちは?」などと書く記事もありました。

しかし、賢十は沈黙を保っていたため、やがて、マスメディアも騒ぐことはなくなりました。

そして、そのまま彼の行方は分からなくなりました。

その後、インドを含め、世界各地で人々は、熱波や大雨、洪水などに苦しみました。

しかし、その中でも、U州は、衛生的な水の確保方法などの対策を急ピッチで進めてきたことがあり、他の地域と比べ、被害が少なくすみました。

その背景には、一人の日本人の姿があったとかなかったとか。

そして、U州の森の一角には、「Kenju Park」と名付けられた、ほんとうにちいさなちいさな一角があるとかないとか。

事実は分かりませんが、そんなことが言われています。

みなさんは、賢十市長をどう思いますか?

ぼくは、彼の行いに、半分賛成です。

※サヌカイト・・・今から約1300万年前の瀬戸内海地域の火山活動によってできたと考えられている岩石。「音を出す石」として古くから知られており、現代では、風鈴や楽器などに使われている。産地の香川県の旧国名にちなみ「サヌカイト」と名付けられている。

※「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」……旧約聖書「ヨブ記」の一節

※PV数……「ページビュー数」つまりインターネットのページが閲覧された回数。インターネットメディアにおける成果指標のひとつ。

本作品は、宮沢賢治『虔十公園林』をオマージュしたフィクションです。実在の地域や人物・団体とは一切関係ありません。


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