【小説】賢十パーク
高井賢十(たかい けんじゅう)はその日、上機嫌で夜道を歩いていました。
賢十は、東北の小さな街で、市長を務めています。
そして今日。彼が進めてきたプロジェクトが、実を結んだのです。
東アジアやヨーロッパの国と連携して、この街に先端技術のラボを建てる。
そして、街に雇用と観光名所を生み出す。
10年近く前から、賢十はこのために奔走してきました。
自分たちの生まれ育ってきた街を、未来にも残したい。
その一心で、慣れない政治の世界に飛び込み、無我夢中で働いてきたのです。
帰宅すると、家はがらんとしていました。
成人した息子は、とっくに東京に出ています。
妻は、今日は仕事で、遠方に出張しています。
「こんなクソ田舎、なんの仕事もないじゃん」
そう言って去っていった息子のことを思い出しながら、
(きっと、若者たちが夢を持てる街になるぞ・・・)
そんな思いに、賢十はワクワクしました。
家に帰ると、彼は、オーディオをつけました。
お酒を飲みながら、音楽を聴く。それは、賢十の、忙しい仕事生活の数少ない楽しみのひとつでした。
田舎街の夜ふけに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ30番が響きます。
この曲に耳を傾けていると、賢十は、世界の底にいつも清らかなせせらぎが流れているような、静かな気持ちになるのでした。
そのうち、賢十は寝入ってしまいました。
※
真夜中、賢十はふと、目を覚ましました。
にわかに風が出てきたようです。
夜の闇を通して、カーテンが静かにはためいています。その様子は、なにかを差し招いているようでした。
窓際では、サヌカイトの風鈴(※)が、
きいんきいん
きいんきいん
と音をたてています。
この風鈴は、瀬戸内にあるK県夕凪市の友人からもらったものでした。
サヌカイトは、1000万年以上前の地殻変動でできた石です。
その音はまるで、生命(いのち)が存在する前の、有機物と無機物がまだ分かたれない時代の奥底から響いてくるようでした。
賢十はその神秘的な音を、夢のような気持ちで聞きました。
ふと、雲に覆われていた月が顔を出し、闇を照らしました。
そのときです。
賢十は、月の光の中から、なにかが近づいてくるのを感じました。
それは、かみさま、でした。
賢十は、典型的な日本人として、「神」について一度もちゃんと考えたことはありませんでした。
しかし、白い後光に覆われ、顔も定かでないそれが、たしかに"かみさま”だと、なぜかわかったのです。
(賢十、賢十よ・・・)
かみさまは、賢十に語りかけてきました。
(インドのU州が、たいへんな事態を迎えようとしている)
(今の気候変動は、大干ばつと洪水を起こす。そして、数百万人が苦しむだろう)
インドのことは、賢十も、テレビやネットニュースで見聞きしていました。
気候変動の影響はさいきん、世界各地で出ています。
しかし特にインドはひどく、熱波で50℃を越える日が何日も続いたり、大雨で大洪水が起こったりと、多くの人が大変な思いをしていました。
賢十も、そんなニュースを見るたびに、心を痛めてきました。
(しかし、お前が、今もっているすべてを投げ出せば、これらの人々を救うことができる)
かみさまは、厳かに告げました。
それは、あまりに唐突な話でした。
日本に住んでいる自分と、インドに、いったいなんの関係があるのか。
そもそも、自分1人の「すべて」とはなんなのか。
しかし、なぜか賢十は、それが「確か」なことだとわかったのです。
そのとき、賢十の脳から、すうっと、なにかのベールが剥がれ落ちました。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(※)
昔どこかで読んだ、そんな言葉が心に浮かび上がってきました。
(わかりました……)
(私は、世界から、身体と心を預かって生まれてきました。それを今、お返しします)
そう、かみさまに答えました。
その瞬間、賢十ははっと目を覚ましました。
夜は再び、静かにそこにたたずんでいました。
すべては夢だったのでしょうか?
しかし、賢十は今たしかに、呼びかけられたと感じたのです。
※
それから数日後。
賢十はとつぜん、市長職を辞任しました。
そして、資産をすべて譲る条件で、妻との離婚も申し出たのです。
突然のことに周りは驚き、怒り、嘆き悲しみました。
賢十は、自分の周りに、たいへんな不幸を生んだのです。
もっとも、彼には優れた右腕となる副市長がいたので、市政に大きな混乱は生じませんでした。
「賢十市長には、後ろ暗いところがあるに違いない」
メディアは、視聴率やPV数(※)を稼ぐ良いネタになると期待しました。
中には、「大愚・賢十市長の過ちは?」と書く記事もありました。
しかし、賢十は沈黙を保っていたため、やがてメディアも騒ぐことはなくなりました。
そして、彼の行方はそのまま分からなくなりました。
その後、世界各地で人々は、熱波や大雨、洪水などに苦しみました。
しかし、インドのU州は、衛生的な水の確保方法などの対策を急ピッチで進めてきたことがあり、他の地域と比べ、被害が少なくすみました。
その背景に、1人の日本人の姿があったとかなかったとか。
また、U州の森の中には、「Kenju Park」と名付けられた、小さな一角があるとか。
事実は分かりませんが、インドにかかわる日本人の間で、まことしやかにそんな噂が伝えられています。
※
みなさんは、賢十市長をどう思いますか?
ぼくは、彼の行いに、半分賛成です。
本作品は、宮沢賢治『虔十公園林』をオマージュしたフィクションです。実在の地域や人物・団体とは一切関係ありません。
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