見出し画像

#03 瀬戸の4月は陶祖まつりです……ん、陶祖って?

陶祖と磁祖

 瀬戸には中国から陶器の技法を伝えたとされる「陶祖」と九州から磁器の製法を伝えた「磁祖」がいます。先のnoteでも書きましたが、瀬戸は陶器と磁器の両方を生産してきためずらしい産地です。今は陶祖も磁祖も神社に祀られています。
 そのお祭りが4月の陶祖まつりと9月のせともの祭(もともと磁祖のお祭りにあわせて大廉売市は始まりました)となります。
 江戸時代に活躍した磁祖・加藤民吉についてはまた別の機会に。今回は陶祖の話。(上の画像は陶祖が祀られている深川神社・陶彦社)

 陶祖は加藤四郎左衛門景正。瀬戸では親しみを込めて「藤四郎」と呼ばれることが多いです。
 活躍したのは鎌倉時代とされています。僧・道元とともに中国(宋)に渡り進んだ陶器づくりの技術を習得。帰国後日本中を旅し中国に負けない陶土を探し回り、瀬戸・祖母懷の地で理想の土に巡り合い瀬戸の地で窯を開いて技術を伝えたとされています。
 その物語は瀬戸・陶祖公園の陶製六角碑に刻まれています。また、旧古瀬戸小学校近くには陶祖像(コンクリート製)があったりします。

コンクリート製の陶祖像(くすんで背景に溶け込んでいますね)。


 加藤景正の名前は日本史の教科書で見たことあるという方もいるかもしれません。
 陶祖は瀬戸市中心の深川神社の陶彦社に祀られています。知恵と工夫の神様とされています。
 深川神社には藤四郎作とされる狛犬が残されています。初めは1対あったとされますが、盗難に遭い今は吽形の1体のみに。さらに400年前の慶長年間に火災に遭い前脚を失い(とても災難の多い狛犬さん…)、今は木製の足で修復されています。戦前は国宝の指定を受けていました。
 瀬戸の人にとっては陶祖は大切な存在であったわけです。

最も進んだ陶器作り

 陶祖が瀬戸に伝えたとされる「進んだ技法」って何だったのでしょう?
 意図的に釉を施した「施釉陶器」です(釉というのは器の表面を覆っているガラス質のコーティングですね)。中国からの伝来品はあったと思いますが、当時の日本ではまだ完成されていませんでした。その施釉陶器が平安時代にこの地方で生産され始めます。一旦、その生産は下火になりますが、鎌倉時代に古瀬戸ととして復活します。その点において、当時の瀬戸の陶器造りは国内で最も先進的なものであったことは間違いありません。

陶祖伝説(?)

 何となく鋭い方は気づかれていると思いますが、先ほどから「…とされています」とか、この文章、なんとなく断言を避けるような言い回しが目立ちませんか?(確かにそうだ!なんかあやしいぞ!?)
 実際のところ、近年では陶祖・藤四郎が実在の人物だったかというとちょっとあやしい部分が多く、近年では「陶祖伝説」と言われることも多いのです。
 陶祖の活躍を記した資料の多くは江戸時代以降に残されたものがほとんどであり、その生きた時代に書かれているものがない。陶祖の活躍したとされる時代以前の平安時代から施釉陶器の生産が始まっていて(徐々に)、急に新しい技術の導入が外からあった雰囲気はない。伝陶祖作とされる陶器の多くは時代がずれている……など、後の時代で作り出されたヒーローという印象が残ります。

 想像するに(私が、です)、江戸時代に瀬戸の陶磁器生産が飛躍的に伸び、隆盛する中で余裕が出来ました(心の余裕は大切です)。その中で陶工たちが自らのルーツを辿り始めたのではないかと。結果、この瀬戸に技術をもたらした英雄像として「陶祖・藤四郎」を産み出したのではないかと思うのです。

 幕末に建てられた「六角陶碑」(陶祖公園)。
4.1メートルの高さのある巨大な碑。六面に陶祖の業績が刻まれている。



 また加藤唐九郎氏は昭和8年に出版された最初の本「黄瀬戸」の中で従来の藤四郎の存在を否定し、「和製の茶人(茶器?)に値打ちをつける爲に」架空の人物が必要だったと、ある種今でいうブランディング戦略のために生み出された人物とも指摘しています。
 そうであれば、かつての瀬戸の陶工たちはずいぶん販売戦略に長けていた人たちだったかもしれません。

<注>「黄瀬戸」……加藤唐九郎氏は陶芸作家としても有名ですが、当時は自ら山に入り窯跡の発掘調査を続け、古陶器の研究でも知られる存在でした。それまでの膨大なフィールドワークをまとめた最初の1冊がこの本です。

 余談になりますが、さらにその「黄瀬戸」の記述は続き……

山窩、山賊、野武士、さうして山の陶工と炭焼、其時々に變わる彼等の生活ではなかつたであらうか。美濃山に現れた瀬戸の陶工加藤一族の活動は、野武士の様でもあり、山窩のようでもあつた。
この一族の宗家なりと稱する瀬戸の藤四郎なるものは、或いは此の山窩の親分であったかも知れない。

「黄瀬戸」加藤唐九郎著 昭和8年


 まあ「山窩の親分」とは言い過ぎかもと思いますが、その時代に山の中で焼き物を作る集団は不安定で苦労したことは想像できます。
 出版当時の瀬戸でこの陶祖の否定は瀬戸の陶工たちの怒りを買い、この書籍の焚書騒ぎまでに発展、唐九郎氏が瀬戸を離れるきっかけともなります。
 ここまで瀬戸の人たちが怒ったのはもちろん自分たちの信じるルーツを否定されたからに違いないのですが、当時の瀬戸の陶工たちと唐九郎氏の関係性もあったかもしれません。何よりも、当時は世界恐慌から始まった不景気は瀬戸にも大きな影を落としており、窯屋・問屋は倉庫からあふれるほどの在庫をかかえ、使用人への賃金の支払いも滞りがちな状況だったと聞きますので、そのストレスの吐け口にもなったとも想像できます(この時代にその在庫処理と賃金支払いのため「せともの祭廉売市」がスタートしています)。

でもやっぱり陶祖はいた

 さて、私も「陶祖・藤四郎」の存在は伝説ではないかと考えます。しかし、一人か複数かはわからないですが、その時代に瀬戸の技術を高めた「人物(たち)」がいたことは間違いありません。それは「陶祖」と呼ぶべき存在です。その時代、瀬戸は確実に技術の段階を上げ、日本で最も進んだ(優れた)産地であったから。
 瀬戸で今も活動する古くからの窯元のいくつかは陶祖から続く歴史を持ちます。その点でも「陶祖・藤四郎」は瀬戸の伝統の象徴でしょう。

陶祖まつり

瀬戸で陶祖の遺徳を偲ぶ「せと陶祖まつり」は毎年4月。今年(令和5年)は15日土曜日・16日日曜日。2日間にわたり、さまざまなイベントが用意されています。ぜひ、瀬戸に足を運んでみてください。
 ちなみに当店は特に陶祖まつりには参加していません(9月のせともの祭をお楽しみに!)。

(ここに書いた内容は私の考え、感想に基づくものです。もちろん諸説いろいろあることをご了解ください)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?