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1.5度目のアウシュビッツ(2012年6月)

2012年の初夏、アイルランドでの留学生活の終盤に、私はアウシュビッツのある「オシフィエンチム」の町を訪問した。

この時は、正確には「アウシュビッツ」訪問ではなかった(だから1.5度目としている)。強制収容所跡には行かず、1年前に初めて訪れたアウシュビッツで出会った地元の若者メンバーと連絡をとり、町を案内してもらうことになった。

町の名前「オシフィエンチム」を無理やりドイツ語読みしたのが「アウシュビッツ」だ。今でもこの場所が世界的に「アウシュビッツ」と呼ばれ続けていることは、名前を奪われ続けているようにも、ドイツによって行われたことをあえて線を引いて残しているようにも感じる。

前年に強制収容所跡を訪れた日本人ツアーメンバーの中に、小さな頃に東京大空襲を経験したというおばあさんがいた。

「わたしは広島には、行きたくないわ。怖いもの」

戦争の恐ろしい記憶がある彼女にそう言われたことが、私は衝撃的だった。

呉の片田舎で生まれ育った私は、広島の街は「きれいで栄えた大都会」というイメージを持って生きてきた。もちろん資料館や原爆ドームのそばで足がすくむ気持ちはわかるけれど、「広島が怖い」なんて考えたこともなかったし、19歳当時、そのおばあさんの物言いに腹が立つ気持ちさえあった。

だけど同じことをアウシュビッツのある町自体に感じている自分に、初訪問で気づかされた。バスに揺られて町に近づく時、窓の外の景色をこわごわ眺めている自分がいた。

夕暮れ時の太陽が、民家のそばの木の向こうから差し込み、きらっと光るのをみた時に、「ああ、この町も広島と同じように、誰かのふるさとなのに」と思った。

だから「オシフィエンチム」の地元の子たちとつながって、連絡を取り合って訪れられたことは、とても大事な経験だった。

ユスティナには会えなかったけど、3人の若者たちが出迎えてくれた。そのうちの一人、サイモンは、英語の勉強を頑張っていて、先日も旅行者の一人を町で案内したのだと胸を張った。

「99%の旅行者は、収容所跡だけ見て町の方には来ないんだよね」
とサイモンが言う。

当時オシフィエンチムの人口の7割近くがユダヤの民だったこと、大切な宗教施設のシナゴーグが1939年に一夜にして破壊されたことなど、ホロコーストとつながる歴史を町の視点から学ぶ場所に行ったり、

ただただ綺麗な川の景色を眺めたり、

お互いの将来の夢や今やりたいことについて話したり、した。

悲しいかな10年以上経った今、細かな会話の内容はほとんど思い出せない私がいる。

けれど「アウシュビッツ」ではなく「オシフィエンチム」に訪れた時間があったことで、世界地図を広げて思い出を振り返る時に、この場所が寒々とした凄惨な記憶の跡だけじゃなく、素朴にあたたかい誰かのふるさとなのだということも忘れずに済むのだと思う。

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