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1度目のアウシュビッツ(2011年3月)

2011年3月。初めてアウシュビッツ強制収容所跡を訪れた。

初めてのピースボート乗船、広島・長崎を語る「被爆者」との出会い、世界中にある問題の当事者たちとの出会い。「初めて」づくしの旅の中でも、この訪問はとても大きな経験だった。

船旅の中で急遽、被爆者たちがアウシュビッツに訪れるツアーに一般乗船者も申し込めることになった。船を降りて飛行機を乗り継いでゆくツアーは、大学1年生の私にとってはなかなか高額で、行くかどうかすごく迷った。

「アウシュビッツにこの先自分で行くことがあっても、被爆者のみなさんと行けるのは今回が最初で最後かもしれない」

メールで家族に相談したら、今は亡きばあちゃんが「行っておいで」とツアー代を工面してくれた。当時はとにかく嬉しくて「ありがとう!」と伝えたけれど、ばあちゃん、どんな思いで言ってくれたんだろう。10年経ってようやく、一つ一つの旅の”当たり前じゃなさ”が身に染みる。

初めてのアウシュビッツで見聞き・体験したことはたくさんあったけれど、記憶に残って言語化できるいくつかの場面を記録しておこうと思う。

数字と、一つひとつの命

敷地の中の展示に、とにかく私は圧倒されてしまった。
積み重なるカバン、靴、メガネや松葉杖。たくさんの人の写真、写真、写真。

1933年から1945年にかけて、ホロコーストで600万人のユダヤ人が殺害されたという。

600万の、人の命。
途方もない。想像しようにも、うまくいかない。認識しようとしても、脳みそと心が拒否反応を起こしてしまうような、膜を張った感覚がある。

数々の展示を抜け、ガイドの人に誘われて、焼却所跡にたどりついた。
ガス室で殺した人たちを、この焼却所で焼いたのだという。

焼却所のかまどを見て、「ここに人間を入れて焼くんだ」と思った瞬間、訪問の1年前にじいちゃんが亡くなった時の、火葬場を思い出した。イメージがリンクして、骨になったじいちゃんを見て泣き崩れるばあちゃんを思い出した。あんなに泣いてるばあちゃんを見たのは生まれて初めてだった。

ただただ惨状に圧倒されてた心と脳みそを、感情が突き抜けて、涙が出てきた。

なんてことが起こってしまったんだろう。

同時に、そこまで身近なイメージと結びつかないとこの感情が出てこない、そういう空恐ろしさも感じた。放心状態で、私はゆっくりと火葬場を出て、ガイドの人の後を追った。


”手を下す”側になるという怖さ

火葬場を出て呆然と歩いていた私は、一緒に来ていた被爆者のお一人の、平井さんに追いついた。

強制収容所跡の広い敷地の中で、寒空の下、ぽつぽつ平井さんと言葉を交わした。お互い、今見ているものに圧倒されていた。

平井さんがつぶやいた言葉が忘れられない。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

仏教の言葉らしい。「そういう状況」に置かれてしまった人間は、ここまでの惨劇に加担してしまうんじゃねと、ここで働くドイツ人たちを想起して彼の口から出た言葉だった。

平井さんは、16歳の時に広島で被爆した。当時中学生だった弟を原爆で亡くし、「骨も見つからんかった」と、時に絞り出すように、時に強く訴えるような声で証言されるのが印象的だった。

同時に、当時学徒動員で広島の軍需工場で働いていた平井さんは、自分自身も「戦争に加担していたのだ」と折に触れて言っていた。

「加担する怖さ」を、私はアウシュビッツで初めて肌で感じた。過酷な列車の移動を終えた人々が収容所に辿り着き、ドイツ人医師が「命の選別」を行った場所で、「もし私がここに立つ医師だったら?」という問いを突きつけられた。

目の前の人を即死のガス室送りにするか、非人道的な強制労働に従事させるか。指先一つで、相手の死が決まる。

それが「できてしまう」人間の愚かさや弱さを実感した。わたしなら全員の命を救ってみせるなんて、口が割けても軽々しく言えないと思った。

だから、その状況を作らないためにあらゆることをしなければいけないのだ。

それまで原爆の被害を学ぶ時には、とにかく「傷つけられる側」に追いやられるのが怖いと思っていた。でも戦争の怖さは、それだけじゃない。

加担する恐ろしさ。手を下すおぞましさ。

戦争が始まって、ここに立って最前線で相手の命を左右するのは本当に最終段階だ。知らず知らず、その状況に向かうレールの上にいて、ブレーキをかけそびれることこそ、本当に怖いことなのだと思う。


さまざまな背景を抱えて

この滞在中は、収容所のすぐ隣にある「Centre for dialogue and prayer(対話と祈りのセンター)」という施設に宿泊した。見聞きしたことに胸がいっぱいになる中、ここで対話し、何ができるかを考え、それを具体的に仲間と話す時間を夜毎得たことは、私にとってとても大きな経験だった。

センターで出迎えてくれたのは、細かな気配りで、寄り添うように訪問者と向き合うシスター・メアリだった。数泊しかしていないけれど、シスター・メアリに会うと「ただいま」とホッとするような感覚があった。

収容所の生存者の方のお話もここで聞き、一緒に訪問した被爆者の方のお話も現地の人たちと共に聞いた。

印象的な、同世代のセンター利用者との出会いが3つある。

1つ目は、地元の若者たちとの出会い。アウシュビッツのある町で暮らす彼らと交流する機会が、ツアーの中で設けられた。

小グループで話し合う時に、おじいさんが収容所生還者だというユスティナと出会った。私は、私も母方の祖母が被爆者なのだということを話した。でも私たちは二人とも、それ以上話せることがなかった。お互い、祖父母の話を実際に聞いたことがなかったのだ。

ピースボートに乗って初めて被爆者の話を聞くようになって、自分の祖母の体験を改めて知りたいと思うようになった頃だった。でも、「聞かんといてあげてね」という母の言葉を聞いて育って、どうやって踏み込んでいいかもわからなかった。

ユスティナもどうやっておじいさんに話を聞いていいかわからないのだと言った。地球上の離れた場所で、すこし似た葛藤をしている女の子がいるということが不思議で、いたたまれないけど心強い気持ちにもなったことを覚えている。

戦争の記憶を扱うということや、継承ということを、「ヒロシマ」「ナガサキ」だけが抱えているんじゃないんだと気づいた。疑いなく自分の地元にある種のトクベツ感を持っていた自分の恥ずかしさがすこし、それを一緒に抱えられるコミュニティが世界に他にあるのだという(それ自体は悲しいことだけれど)心強さがすこし。


2つ目は、ドイツから来た高校生たちとの出会い。
たまたま、高校の歴史ゼミの研修で来ていた彼らとセンターで出会った。

「自分たちの国がやったこと」としてこの壮絶な出来事に向き合うことは、生半可な気持ちじゃできないように思う。

夜、彼らの話し合いの場に顔を出したことがあった、もうオフィシャルなプログラムは終えたはずの時間だったけど、彼らはえんえんと、喧々諤々議論していた。ドイツ語だったので何を言っていたかはわからなかったけど、「この場で学んで何を持ち帰るのか、帰って他の人に共有する内容を話している」のだと一人が教えてくれた。

自国の加害の歴史を学ぶということが、日本の教育では著しく置き去りにされている。私は大学に入って寮で韓国人留学生の友人たちと話す中で、それを痛感し始めていた。

それを高校生たちがこんな風に真正面から、議論しながらやっている。
その場の熱量が印象的だった。


3つ目は、イスラエルから来た兵士との出会い。
これもたまたま、日帰りで見学に来ていたイスラエル兵の一団がセンターに立ち寄っていた。

見学中も彼らを見かけたけれど、迷彩柄の制服に身を包み、粛々と「自分たちユダヤ人にされたこと」を見学しているものものしい雰囲気を感じた。

おそらく私一人だったら話しかける勇気は出なかったけど、ツアーで一緒に訪問していた仲良しの友人が「話しかけに行こう」と言い出した。

彼について行って、比較的話しかけやすそうな若い兵士に声をかけた。名前はラミ。戦う訓練も受けるけれど、隊の中ではトランペットを吹くのが仕事なのだと教えてくれた。

船の上でイスラエル・パレスチナ問題を学んでいたのだが、「『なんで戦争してるの?』って聞いてみて」という友人の言葉に慄いた。そんなストレートなこと聞いていいものなのかな。恐る恐る、彼の言葉を通訳するかたちで、その問いをラミに投げかけた。

「したくてしてるんじゃないよ。平和のためにしてるんだ。平和な生活のために」

ラミは不躾な問いに怒るでもなく、私たちに諭すように答えた。

「相手が攻撃してくるから、俺らも戦わざるを得ない。戦争なんて本当にしたくないんだよ」

構造的に、パレスチナの人々が圧倒的不利な状況に追いやられ、理不尽な暴力(空襲や日々の検問、厳しい生活の制限など)がたびたび振るわれることを認識しながらも、目の前のラミに「あなたは間違ってる!」と言える自分ではなかった。

ラミは念をおすように、「本当はしたくないけど仕方がない」と何度か言った。私が何を言おうと、ラミの暮らす環境と世界観はそういう論理で動いているのだと思った。

日本にいて原爆のことや戦争のことを学ぶと、「原爆はダメ、戦争はダメ、平和を大切に」という言葉をインストールすることになる。

そのインストール作業だけじゃ、現実を何も変えられないじゃないか、と漠然と腹が立った。何を学び、何を変えたら、この問題は解決へ向かうのだろう。

3つの出会い全て、私になにかの「答え」をくれるものでは決してなく、むしろモヤモヤの種を残していった。

いろんな背景が交差して、そこから新たな問いが生まれる場所に、広島もなれるのかもしれない。どうしたらそういう場所を作れるんだろう。と、その時考えたことが、今の活動につながっている。

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