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大ママちゃんとわたしと、歴史とひとりの命と

3月26日土曜日、夜。
突然、「大ママが亡くなった」と母からLINEが入った。

あんなに急な知らせ、実感がわかなくてぽかんとしそうなものだけど、なぜだか文面を見た瞬間から涙が出てきた。

心のどこかで、「いつかそうなる」と少しずつ覚悟が積み上がってきていたのかもしれない。

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「大ママ」というのは、わたしの母の、母。つまり母方の祖母である。

大ママちゃんは、大正15年生まれ。でも年寄り扱いされたくないから、いつも「ぎりぎり昭和生まれ」と言い張る。

誕生日はお釈迦様とおんなじ4月8日。今年は年女。つまりまるまる8回り、この春96歳を迎えようとしていた。

「おばあちゃんと言われたくない」という祖母を、いつしかわたしたち孫は「大ママちゃん」と呼ぶようになった。

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一番手前のメガネの女の子が、女学生時代の大ママちゃん

小学生のころまでを横浜で過ごし、いわゆる「シティーガール」だったそうで。

引っ越すことになって最終的に広島のこんなド田舎に行きつくし、世の中は戦争の色がだんだん濃くなるし、「どんどんさえんようになった」と昔のことをこぼしていたのを聞いたことがある。
(※さえん=広島弁で「ぱっとしない」かんじ)

広島に原爆が落とされたあと、大ママの通っていた三原にある女学校は救護のために市内に入って炊き出しを行うことに。放射能のことはもちろん知る由もないまま市内で活動し、のちに入市被爆と認定されて被爆手帳を持った。

戦後、大ママは当時としては比較的珍しい、「職業夫人」として生きてきた。小学校の先生として、長く働いていた。

おとなしいというよりも、意見を持っていて活発なイメージ。海外旅行にも何度か行っていたみたいで、わたしが初めて海外に行くときに、「これ持っていきんさい」と古い小銭入れに1ドル札やアメリカの小銭がたくさん入ったものを渡してくれた。

病気をしていたこともあったり、足腰が悪くなって手術をしたりはあったけど、4人の祖父母のうち一番長く生き、最後まで一番元気にしっかりしていた。

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母と、大ママと、わたしと、妹と

そんな、大ママちゃん。

わたしは取材を受けて「被爆3世」という言葉が使われるようになってから、どうしても原爆当時のことを大ママに聞きたくなって、10年ほど前に一度話を聞きに行ったことがある。小さな頃から母に「原爆のことは、聞かんであげてね」と言われていたから、すごく勇気がいるお願いだった。

「あんまり、覚えとらんのんよ」
「話せるようなことが、ないねえ」

と、終始言うばかりでなかなか当時の状況はうまくわからなかった。
実際、原爆投下から10日が経って入市した彼女は、「原爆の話」として語られる惨状を見ていない、と言っていたのだと思う。

記憶にないものを、無理やりに引き出すことはできない。
それに、「その時の話」だけが語られる価値のあるもののように扱われることにも、年月がたつごとに疑問が募ってきた。

コロナ禍になり、近くに住んでいるのになかなか会えない季節が続いた。ようやく気軽に会えるタイミングが少しずつつくれるようになった今年の初め、大正から令和までを生きた彼女の人生そのものを、もっとしっかり聞き取りたくて、わたしは聞き書きをさせてほしいとお願いすることにした。

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これまたコロナで延び延びになっていた地元でのわたしのコンサートがついに実施できた3月半ば、歌を聴きにきてくれた大ママちゃんと、母と、3人でごはんを食べに行ったとき。

「じゃあ大ママちゃん、今度会いに行ったときに、ゆっくりいろんな話聞かせてえね」
「うんうん、ええよ」

お願いを、気軽な感じで引き受けてくれた大ママちゃんに、前回ほどではないもののちょっと勇気を出したわたしは安堵した。

目の前で大ボリュームのヒレカツ定食をしっかりとたいらげ、わたしや母より食欲がしっかりしとる、これが長生きの秘訣かぁと3人で笑った。

親子3代の食事を微笑ましく見ていたのか、お店の方が、「ちょっと早いけど、桜が見える場所がこの辺にあるんですよ」と教えてくれる。

普通の桜とは違うカワヅザクラというそうで、車ですぐそこの島に咲いているという。帰りに寄ってみようと、わたしたちはうきうきお店を出た。

桜は満開で、きれいなピンク色で、鳥が鳴いていて、秋になったいま振り返っても、今年で一番きれいな桜だった気がする。車の窓から、「きれいじゃねえ」と3人で眺めた。

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大ママちゃんと、「被爆者」と言う言葉には、私のなかで距離がある。
ほんとに、大ママちゃんは、あくまでも大ママちゃんで。

原爆との関わりは彼女の長い人生のなかの一つの経験で、手帳を持っているということは、一つの要素。大ママ自身がそのことを自分の生き方やアイデンティティのようなものに引き寄せていなかったこともあって、家族みんな、そんな感覚だったと思う。

たぶんそういう人は、広島にも長崎にも、いろんなところに、たくさんいらっしゃる。わたしが活動で関わる方々にも、「被爆者」が時に肩書きのようになることに違和感のあるような、そういう感覚があるのではないかとも思う。

だけどこの春、大ママちゃんが亡くなったとき、わたしは純粋な孫としての悲しみと同時に、日頃関わっている「1945年8月6日」の文脈と、自分との不思議な断絶と心細さを強烈に感じた。その自分の感覚に、驚いて戸惑った。

見えていない、感じていないところで、わたしは大ママちゃんを通じて、「その頃」につながっているような感覚を持っていたんだろうか。


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葬儀のあと、わたしの活動を知っている母と叔父さんのご好意で、大ママの被爆手帳をすこし預からせてもらった。

一緒にまとめられた書類の中に、「原爆死没者名簿」に名前の記載を希望するかを選ぶ箇所があった。被爆手帳を持っていたら自動的に名前が載るわけではないのか、とふと思った。

毎年更新される、名簿の数字。そこから自分の意思で、もしくは家族の気持ちで、もしくは知られることなく、こぼれていくひとたちがいるのだな。

大ママの名前は、名簿に載ることになった。

毎年のようにハチドリ舎で8月6日の中継を見守る中、奉納される名簿に大ママの名前が含まれることに、不思議な心地がした。

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大ママひとりの人生と、その死の大きさを思う。

聞き取りきれない、記録しきれない、膨大な記憶や彼女が五感で触れた事象が、手の届く可能性のあるところから、まったく手の届かないところにすべり落ちていく。


絶望的だと、素直に思う。

だけどこれは原爆にまつわることに限らず、人間はこういうことを繰り返しながら生きているのだなと思う。

すべてを後世に遺すことなんて土台無理な話。それを少しずつ、足掻きながら、模索しながら、ときに恣意的に、遺すことに心を注ぐ。


その途方もなさを心の片隅に感じつつ、孫としてのわたしはつつがなく四十九日の法要を過ごし、原爆から77年目の夏を終え、ふと思い出しては大ママの思い出を家族と語る。

「寅年」が似合う大ママちゃんが、愛用していたコタツに置いていった、かわいいトラの鈴が、わたしがいただいた形見。

ちりちりと、かわいい、些細な、だけど気になる音が、わたしのそばで鳴っている。

たぶんずっとこんな感じ。

この春感じたいろいろな感覚が、遠くなったり、近づいたり、することを注意深く観察しながら、わたしは今日も生きていく。

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おしまい。


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