三歩目『端倪』

何本書いたかを記すために、歩んだ数を題に付すことにした。今回は三歩目。

表題は、たんげい、と読むらしい。物事の始めと終わりのことで、全体の把握や推量をすることという意味もある言葉だ。「端倪すべからざる人物」のような否定を伴った形で使われることが多く、「推し量れない、計り知れない人物」という肯定的な、しかし畏怖すら覚えるようなニュアンスを含む。

加藤楸邨という俳人に関する文献を読んだ。アルバイトの一環で、自発的にではない。高校現代文のテキストに一つの問題文として登場したこの「加藤楸邨を悼む」(大岡信著)では、氏は武骨でありながらその不器用さのままに円熟したために誰にも追随を許さぬ「楸邨宇宙」を創り上げたと説明されていた。この評説は、現代俳句の最前線をその情緒に深く刺さる作風で走り続けていた加藤の死に際して、筆者がいくつかの作品あげ解説を添えたものであった。

「端倪」はこの評説に登場した単語である。筆者は加藤を「端倪すべからざる多面体の俳人」と称した。何かを褒める折、日本語には様々な表現方法があろうが、もはや上手い言葉も見つからない、こちらの程度では思い至ることさえも難しい、という朧な思案を抱えて葛藤することも少なくない。そんな状況さえも別の言葉が表してくれるのだから、日本語の海は深く広い。

私が今身を置く演劇をはじめとする創作物たちの多くは、この国においては日本語を構成要素として成り立っている。言葉の持つ力は絶大だ。たった一語が世界を造る。例えば絵画や彫刻でさえ「タイトル」という言葉の持つ意味の強さがまさに端倪すべからざるものなのだから、「そのもの自体」が言葉でできている創作物など論ずるまでもない。日本語を学び続けなければ、という話であった。

知識を入れ続けること、言葉に対して常にアンテナを張り続けることは不断にできるし、やらなければならない。芸術の道は険しい。大学を卒業してそのままプロとして生きていくことは恐らくできないだろう。

だから今は蓄積のときだ。家からは出られなくても情報には触れられる。知識は掴みに行けば逃げはしない。蓄えて蓄えて、今だというその時に使いこなせるよう備えよう。悲観してばかりではもったいない。

【今日の学び】
加藤楸邨(1905-1993)
日本の俳人。国文学者。水原秋桜子に師事。生涯にわたって器用な俳人ではなかったが、拙さを伴って不断に前進するよう努めた。そのために端倪すべからざる世界観を創り上げ、俳句史に屹立する俳人となった。代表作に『吹越』『怒濤』などがある。

(参照:『加藤楸邨を悼む』岡本信)


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