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無人の山中で木が倒れたら音はするか?


「無人の山中で木が倒れたら音はするか?」
これは、禅問答の一つです。

※ 禅問答: 禅の精神を探求する修行者が
 さとりをひらくために行う問答。

~  ~  ~  ~  ~

経済成長が止まり、コロナも起き、
「未来が見えにくい」、
そんな風に言われる時代です。

でも、過去のどんな時代だって、
先が明確に見えたためしはありませんでした。
未来って、せいぜい人口予測しかできません。

なので、未来を憂いても仕方なくて、
心を穏やかに整え、
今できることを精一杯やり、
必要となりそうなことを学び、
大切な人をちゃんと大切にし、
そして「自分の考えを持つ」ことが
必要じゃないかなと思います。


情報がうじゃうじゃある上に、
正解のない物事ばかりです。
自分の考えを持っていないと、
たまたま人に言われたり、
たまたま目に触れたものが良いと思って
流されてしまうかもしれません。

人がいいと思っていることが
自分にいいとは限りません。


また、
「なんかいやだな」と感じていても
自分の考えを持っていないと
「なぜ嫌なのか」に気づけないから、
「まあいいか」と打ち消しにして、
嫌なことを自分自身にさせてしてしまう。
そして時間は過ぎていく。

かくいう私はこれで時間を無駄に
したことが何度もあります。反省。


 ということで、
「自分の考えを持つ」方法の一つは、
「なぜ〇〇なのか?」をじっくり考えることだと思うので、
例としてこれを挙げました。

「無人の山中で木が倒れたら音はするか?」


科学的に言えば、
空気があって、木という物体の振動があれば
音波が発生して音が生まれると。

けれど、禅問答では次のようになるでしょう。
誰もいないところで木が倒れても
そこに意識・認識がなければ
音はしていないのと同じである。


これを考えていたときに
スティーブン・ホーキンス博士
の言葉を思い出しました。

「宇宙は、
 そこに愛する人がいなければ
 たいした意味はない」


宇宙の解明を目指した理論物理学者の博士が、
唯物論ではなく唯心論で宇宙を語ったことに
ハッとさせられます。

ホーキンス博士の言葉を借りれば、
山中で木が倒れて音がしようが、しまいが、
そこに人がいなければたいした意味はない、
ということになります。


誰かに意識・認識されてはじめて、
音がしたことになり、
宇宙には意味が与えられるのです。

それだけ意識・認識というものは
素晴らしくて、重要で、
人を人たらしめるものであり、
だから磨いていくことは尊いのだ
と言っているのでしょうか。

とすれば、そうだなあと思います。


~  ~  ~  ~  ~


で、もうちょっと考えてみました。
上記の考えに共感する一方で、

音を聞く人が山中にいなくても、
ほかの木は聞いているんじゃないだろうか。
ほかの動物は聞いているんじゃないだろうか。
何といっても絶命する木は
最後の音を残したんじゃないだろうか。

人間(自分)はまったく意識・認識していない
無関係な出来事だとしても、
それはやはり「ある」んじゃないだろうか。

例えば、生涯そこに行くことはないであろう
辺境の戦争が「ある」ように。

例えば、知らされても何も悲しくない
見ず知らずの人の死が「ある」ように。

浅いなりに自分の回路をぐるぐるして、
いま私の考えは、

「無人の山中で木が倒れても音はする」です。

正解はわかりませんが。

こうやって考えを巡らせるのは、
すごく疲れるけれど、
思考回路が整理されたり、スムーズになったりして、
たまには応用も効くから、
何かいい問いに出会ったり、何か「ん?」と思ったら
スルーしないで考えていきたいと思います。


【今日のおまけ(になるかもわからないもの)】
夕暮れ散歩で面白い雲を見つけました。礼子画伯の作品「龍」。画像1

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