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短編小説「夏の脳」

夏は、脳もバテるようだ。最近の私の抜け落ち具合と言ったら恐ろしい。このままの状態が続いたらどうなるんだろう。そんな不安な日々を生きている。

「最近ね私、星野くんのことだけが覚えられないの」

そう話し始めた。カフェで向かいの席に座る奈々が神妙な面持ちで頷く。
「それ以外の人の話は覚えてるの。約束も。星野くんの情報だけが追加できない」
「たとえば?」
「例えば、新しくできた友達の話とか。その友達がなんて名前で、どんな職業で、星野くんとどんな話をしたのか。何度も聞き返してしまう」
「他の人の話は覚えられるんだよね」
「うん。奈々がこの前、クラブで出会ったのは自称ベンチャー企業に務める34歳の睦さんで一回だけその後寝た。奈々が今喧嘩している友達は、中学時代の同級生で佳奈さん。原因は、奈々が佳奈さんの誕生日にラインをしなかったから」
「覚えなくてもいいことまで覚えてるね」
奈々は呆れるように笑った。私は少しだけ自信を取り戻す。
「星野くんはなんて?」
「仕方ないよ、って言う。最初はその程度だったから」
「なるほどね」
奈々が溶けかけたバナナシェイクをジュルルと啜った。最後にズコッという音が鳴る。奈々はいつも食事が早い。私も追いつかなくちゃと慌てて、皿の上のオープンサンドを頬張った。飲み込む。ざらざらと固形物が喉の壁を擦れる感覚。
「はじめはそれでよかったんだけど、次第にそうも言ってられなくなった。約束の内容を忘れ始めたの。映画デートに行くってことは覚えてても、どこの映画館だっけなとか。ついにはこの前‥」
思い出すだけで、背筋が寒くなる。
「夜にうちに星野くんがきてくれるって約束自体を忘れてた。仕事から帰って、お風呂から出たらガチャって音がして泥棒だと思って。私本気で叫んでしまったの。タオルだけ、とりあえず下半身に巻いて、片手になんでかキンチョール持って」
「上は隠さないんだ。シュールだね」
奈々は飲みおえたシェイクに刺さったストローを噛みながら笑っている。急がなくちゃ。もう一口頬張って、飲み込む。
「ねえ、奈々。笑い事じゃないよ。玄関で星野くん固まってて、ほら田舎道で急に車に気づいたたぬきみたいに目をまん丸にして。その後、明らかにショックを受けてるみたいだった。口では「大丈夫」って言ってたけど」
ふうん、と奈々は言ってから窓の外を見た。その間に、私は最後の一口を平らげた。これで、全部。ソースだけ残った皿を見てホッとする。奈々はまだ窓の外を見ている。私も釣られて見た。でも、窓の外には何もなかった。道を挟んで向かいのだだっ広い公園と、そこで遊ぶ子供たちの姿。店の窓に、カナブンが一匹張り付いていた。虫の裏側ってどうしてこうもグロテスクなんだろうと思う。食べ切った後の発見でよかった。

「夏生」
奈々が私の名前を呼んだ。カナブンから視線を離して、奈々の方を見る。奈々は、真っ直ぐと私を見ていた。まるで私の心に少しでも自分の心を近づけようとしているみたいに。
「今日の約束は覚えてる?」
私の心臓が勝手に跳ねる。何を言っているんだろう。
「奈々とこのカフェでお茶をする」
「その後は?」
「後‥?」
何を言い出そうとしているのだろう。窓の向こうに見える夏の熱気が、私の隙間から入り込んでくる。星野くん。星野くん。私の恋人の星野くん。星野くんのこと。覚えられない。

「星野くんのお墓参りに行く」
勝手に言葉が出た。涙も勝手に出てくる。なんだこれ。何それ。どういうこと。そして、次の瞬間私の脳と体が繋がった。ああ、そっか。そうだった。星野くん、死んじゃったんだ。
「夏生は、覚えられなくなったんじゃないよ」
「星野くんのこと、忘れちゃわないように頑張っているだけなんだよ」
窓の方を見る。さっき張り付いていたはずのカナブンの姿はもうなかった。本当にいたんだろうか。そんな気持ちになる。いや、きっといたはず。それを証明できるのは、私しかいないのだから。

毎年、夏になると私の脳は星野くんを思い出す。