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【映画】否定と肯定(2022年2月8日)

昨年初めて観た際は、アンドリュー・スコットのかっこよさにばっかり気がいってしまって、かつ内容が何だか難しくて映画としての感想は、ネット上でもろもろ皆さんがアップされている素晴らしい解説や感想を読み、「へぇそうなのか・・・。全然わからんかったよ」というものだった。

今回は、映画公開時からかえってどんどん悪化する「言ったもん勝ち」の風潮について、いま再びこの映画を見たほうがいいのでは、というTwitterで流れてきたコメントを読んで、私も再視聴することにした。

解説などで言及される「批判する人と同じ土俵に立ってはいけない」というポイントを、残念ながら今回も映画から理解することができなかったが、やっぱりアンドリュー・スコットがかっこいいのは同じ感想・・・。かっこいい・・・。

原題の「Denial」が、主人公の著作も含め、最後までキーワードとなり映画の軸としてしっかり立っている。裁判自体は「負けない=勝つ」ことがメインテーマであり「やった!勝利だ!」ということに変わりはないのだけれど、その勝利は、戦争の犠牲者が存在しているという事実を補えるものではなく、むしろただはっきりと示すのみだ。その意味で、原告アーヴィングのにくったらしさよりも、そんなことのために時間もお金も使わなければならないという状況そのものが、ただ腹立たしい。

この裁判では、事実かどうかという点よりも、「本人が事実と信じているかどうか」が争点になった、のかな・・・?理解が正しいか不安・・・。
つまりその場合、米国国会議事堂を襲撃した人たちは、心の底から信じて行動していたから無罪、ということになるということ・・・(器物損壊とか不法侵入では有罪だろうけど)?

中盤では、実際にアウシュビッツ収容所跡を法廷弁護人とともに主人公が訪れる。印象的で心動かさられずにはいられない重要なシーンだ。
※ちなみに、マーク・ゲイティスが(なぜか)ドイツ人のホロコースト研究家として出演しており、「Sherlock」ファンとしてはアンドリューに続きうれしい限り。
雪が少し降り積もる広大で意味を持った土地。そこに立つだけで伝わるものはあるだろうな、ということがどっと押し寄せてくるような、説得力のある画面が続く。そういった状況で、不自然なくらいに飄々とした振る舞いを保つ法廷弁護人に対して、主人公が持ついら立ちは、本来はその先ににいる原告や原告のような言論を支持する人たちに向けられているのだろう。弁護人はあくまで冷静でいならなければならない、わけで、本人が心の底から冷静でいたわけではない。足裏にささった鉄格子の破片を自宅に持ち帰り眺めるシーン。「この前はマクドナルドの案件を弁護していた」と、弁護士として多様な状況に対応することが必要であることを説明するシーン。これら中盤の主人公対法廷弁護人の対話は、深々とした湿度が伝わり素晴らしかった。

日本もそうだし欧州もアメリカも、昔からこういった集団は存在しているけれど、現代の恐ろしいところは(ベタだけどやはり)SNSなどで容易に累乗的に集団規模が増えてしまう点だろう。
特に、「否定」って、簡単だから、暇な人にとってはいい時間つぶしになるんだろうな。「その証拠は?」「どうしてそう言い切れるのか?」「具体的にわかりやすく説明してもらえませんか?」「ほら言葉に詰まった!」って、何に対しても全部これで攻め続けるほうが簡単だもの。だって、「地球が丸い」ってことすら、いますぐ説明しろって言われたらしどろもどろになるからね~。まあ、子供の駄々と同じだよ。
あるいは逆に、根拠のないデカいことをぶち上げるっていう手法もある。トンデモ説を繰り広げたり、金のかかりそうなこと(銅像作るとか)言い出したり。そして批判すると「代案出せ」っていわれる。ああそうか、これが、「批判する人と同じ土俵に乗るな」ってことなのかな・・・。

一方、何かを主張するっていうのは、一つ一つ説明を積み重ねて論証する必要があるので、とても時間がかかるし、相手に理解させるのも大変だ。「説明とは何か」ってことだけで、いろんな学者がいくつも説を出しているくらいなので・・・。


関係ないけど、ホロコースト関連の映画などを見るたびに、「そういえばポル・ポトってどうなってる?」って思うけど、まだ生存者がいたりしっかり権力握ったりしているから映画になったりしないのか?被害規模は世界史上でも圧倒的と言われているし、同じアジアなので日本にも関連すると思うんだけど・・・。

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